世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

禅語「知足(ちそく)」。

本日は、「知足(ちそく)」という禅語について、

私が思っていることを述べさせていただこうと思います。

 

「知足=足るを知る(=足りていることを知る)」は、

老子の言葉としてご存知の方も多くいらっしゃることと存じます。

 

また、原始仏典と言われている『スッタニパータ』や

『ダンマパダ』(=法句経(ほっくきょう))にも、

次のような言葉が載っています。

 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

 (『ブッダのことば-スッタニパータ』岩波書店P37)

 

 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。

 (『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波書店P36)

 

そして、

私の手もとにある『ほっこり、やさしい禅語入門』という本には、

 モノが満ちあふれている現代社会。それでもなお不満をもつ人がいます。あれも欲しい、これも欲しいと思うと、満たされないことにばかり目がいってしまいます。でも、「これで十分」と思えれば、その時点で幸せな気持ちになります。

 「知足」は、我慢をしたり、極端な節約をするという意味ではありません。目の前にある幸せに満足することが「知足」です。

と説かれています(P88)。

 

意味をあらためて確認していくと、「知足」という言葉には、

「足りているのに、もっと欲しがる人」への“戒め”のほかに、

「不満をもち、幸せを感じられない人」に向けて、

「幸せを実感してほしい」という“優しさ”も感じられます。

 

いずれにいたしましても、

「知足」という言葉は、

「足りていることを知りましょう(気づきましょう)」

ということを伝えていると解釈して間違いないと思います。

 

ただ、私自身は、「知足」という教えの対象を

「欲」に絞らずに考えており、

「加えて考えていること」が二つあります。

 

一つは、「知足」について、

りているとは、どういう状態かをりましょう」

という解釈をして、

「足りていることを知ること」だけでなく、

「足りていないことを知ること」も必要である、

と考えていることです。

 

以前、ある人から聞いたお話し(実話)なのですが、

ある小学生の女の子が、

明日の体育の時間に使う縄跳びを兄弟姉妹からも借りて、

「3本」持って行こうとしていたので、

母親が「どうして3本も持って行くの?」と尋ねると、

その女の子は「縄跳びを忘れたお友達に貸してあげたいから」

と答えたそうです。

 

お友達のことも考えるこの女の子にとって、

縄跳びは「自分の1本では足りなかった」

ということだと思います。

 

周囲から見て「足りている」ように見えても、

本人にとっては「足りていない」ことが“ある”のであり、

そして、その行為(縄跳びを3本持って行くという行為)について、

「理由」を考えなければ、

「足りているのかどうか、欲なのかどうか」の「真実」がわからない、

ということを、私はこのお話しから学ばせていただいたように感じ、

「真実」を見誤ることのないようにしたい、と思いました。

 

もう一つ考えているのは、

「人は、知ることができたから歩き出せる」こともあれば、

「人は、知りたいことがあるから歩き出せる」こともあり、

いずれにいたしましても、

「自分に、歩み出すためのがあることをりましょう」

という意味も、「知足」にはあると思っている、

ということです。

 

例えば、どなたにも、

辛いことがあったり、失敗をしてしまったりして、

これからどうすればいいのだろうかと「苦しんだ」

というご経験があると思います。

 

私は、基本的には、中途半端な苦しみ方ではなく、

「とことん苦しんで、底を打って元気になり、動き出す」

というプロセスを好み、このプロセスを大事に思っています。

 

このプロセスをおろそかにしてしまうと、

気持ちや考えが不足したままであったり、

取る行動が未熟であったり……ということが起きてしまい、

本物ではない元気で動いてしまうことがある、

と考えています。

 

そして、「苦しみ」をきちんと、しっかり味わった後、

「(苦しみという)気持ちが充足した」ことに気づき、

「もう、苦しむのはここまでだ。次へ進もう」と思えれば、

「前進するために必要な状態=足りている状態」に到達した、

と言えると思っております。

 

このような、

“苦々しい思いや反省”が足りた時、

“気づきと前進の幸せ”があることを思うと、

私はここに、

“戒め”と“優しさ”の意味をなぞらえて感じます。

 

私が思っている「知足」については以上なのですが、

簡単にまとめさせていただきます。

  • 「知足」という教えの対象を「欲」に絞らずに考える。
  • 「知足」とは、「足りているとは、どういう状態かを知りましょう」という意味である。
  • 「足りていること」と「足りていないこと」の両方を知る(気づく)必要がある。
  • 「足りているのかどうか、欲なのかどうか」の「真実」は、それを欲しがる「理由」を考えなければわからない。
  • 自分を省みて、気づきがあり、「次へ進もう」と思えれば、「前進するのに足りている状態」に到達したと言える。
  • “苦々しい思いや反省”と“気づきと前進の幸せ”は、「知足」が示す“戒め”と“優しさ”と同様である。
  • 「知足」は、「自分に、歩み出すための足があることを知りましょう」という意味でもある。

 

私は時に、「知足」という言葉とその意味を、

自分を省みるために意識的に思い出して、

「前進につなげよう!」と思っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

ブッダのことば―スッタニパータ』中村元 岩波書店

 ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元 岩波書店

 ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

『ほっこり、やさしい禅語入門』石飛博光と鴻風会 成美堂出版

 ほっこり、やさしい禅語入門―心豊かな毎日をおくるための禅のことば