世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「念仏」について。

※この度の記事は、約4500字になっております。

 皆様のご都合に合わせてお読みいただけたら幸いです。

 

先日(2月25日)、平昌オリンピックが閉会しましたが、

開催中は、テレビでできるかぎり競技を拝見しておりました。

 

選手の皆さんの陰の努力、

自分を支えてくれた周囲への感謝の気持ちがあふれる言葉、

そして、選手同士のお互いを敬う美しい姿……

たくさんの心を打たれる場面がありました。

 

スポーツに限ったことではないと思いますが、

「応援の気持ち」と「感謝の気持ち」というのは

とても仲良しで、その気持ち同士の相性の良さが、

人と人の関係をより深めていくことを感じました。

 

それがまた、人が何かをする時の、

大きな力となっていくことも感じました。

 

そこで本日は、私にとって、

「応援の気持ち」「感謝の気持ち」と通じている・つながっている

「念仏」について、述べさせていただこうと思います。

 

ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)は、

(限られた人にしかできないような厳しい修行によってではなく、)

どのような人でも「ただ一心に念仏を唱えれば救われる」

という「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を説き、仏教を、

どのような人(修行も出家もしていないような民衆)にも届く、

「身近なもの」にしてくださった方です。

 

どのような人であっても救いたいと願い、

どのような人であっても救われる道があると信じて、

教えを説いてくださった法然上人のことを、

私は尊敬しております。

 

そこで私は、この記事をお読みくださる方々に、

「念仏が、自分にとっても身近なものであった」

と感じていただくことを一番の目標として、

この度の記事を書きすすめて参りたいと存じます。

 

まず、簡単に説明をさせていただきますと、

「念仏」とは、「仏の名を唱えること」であり、

具体的には「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱えること」です。

南無阿弥陀仏を「なあみだぶつ」と唱える方もいらっしゃることと存じます(自分にとって唱えやすいほうで唱える、ということでよろしいかと存じます)。

 

「南無」とは、「帰依(きえ)」「帰命(きみょう)」という意味で、

「帰依」は「すがる」「頼る」という意味であり、

「帰命」とは「命をささげる」「命を帰す」という意味です。

 

そして、「阿弥陀仏」とは、

「法蔵(ほうぞう)」という名の「菩薩」として修行中に、

「すべての衆生を救う」という誓願を立て、

その誓願を成就したので「仏(阿弥陀仏)」となった方です。

※因みに「阿弥陀」とは「無限・無量の光・智慧」という意味ですが、この度は、この点に関する説明は割愛させていただきます。

 

したがいまして、

「念仏」=「南無阿弥陀仏と唱えること」は、

「すべての衆生を救ってくださる阿弥陀仏に頼ります、と唱えること」

ということになります。

 

そして、日常生活の中に、このような、

南無阿弥陀仏と唱えること」が習慣としてなかった私が、

初めて「念仏」を身近なものに感じたのは、

真宗入門』という本の、次の箇所を読んだ時でした(P176)。 

 私たちが「お母さん!」と名を呼ぶのに似ています。あるいは、配偶者の名を呼ぶのに似ています…… 

例えば、子どもの頃、母親と買い物に行き、

いつのまにか母親の姿を見失ってしまい、

「お母さ~ん」と、思わず母親の名前を叫んだ、

というご経験がおありの方もいらっしゃると思います。

 

私は、この、

「お母さ~ん」(と呼ぶこと)が「念仏」なのだ!

と思いました。

 

さらに、『真宗入門』には、

(長文の引用を避けるため、私本位で抜粋・加工いたしますが、)

ある青年が、ある女性・ジョアンナと結婚し、

その後、重い病にかかった時、彼はジョアンナの名前を呼ぶ……

勝手に口が「愛してるよ、ジョアンナ」と言ってしまう……

彼は「いかに彼女を頼りにしてきたかにめざめ気づかされる」のである

とあります(P176,177)。

 

私は、やはり、この、

「愛してるよ、ジョアンナ」(と言うこと)も「念仏」なのだ、

と思いました。

 

もちろんではありますが、呼ぶ名前は、

お母さんであったり、お父さんであったり、

おじいちゃんであったり、おばあちゃんであったり、

兄弟姉妹の名前、配偶者の名前、恋人の名前、友人の名前など……

人それぞれ違うと思いますし、

場面や状況、時の経過と共に変わってくることもあると思います。

 

因みに私は、「亡くなった猫たちの名前」を呼ぶことがあります。

 

私が以前一緒に暮らしていた猫たちの中に、

「チィちゃん」という名前の猫がいました。

 

大好きなチィちゃんが亡くなった後でも、

私自身に少々凹むようなことがあった時、

「チィちゃん」と呼んで、

「そうだ!私はチィちゃんのお姉さんとして、

こんなことでくじけるわけにはいかないのだ!」

と思ったりします。

※私はチィちゃんのお姉さんという設定で暮らしておりました……

=^_^=

 

私は、「呼びたくなる名前」「呼ぶと落ち着く名前」が

自分の中にあることは、とても幸せなことだと思っております。

 

また、この「名前を呼ぶ」という行為ですが、

浄土真宗の開祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、

「念仏」について、

「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき」

=「阿弥陀仏の名を唱えようという心が起こるとき

という表現をされています(『歎異抄』第一条を参照)。

 

つまり、親鸞聖人は、「念仏」について、

(自らわざわざそのような気持ちを起こして唱えるのではなく、)

「心が起こるとき」=自ずとそのような気持ちが起きてきて唱える、

というものであるとおっしゃっているのです。

 

そして私は、このような、親鸞聖人の説く、

「自ずとそのような気持ちが起きてきて唱える念仏」が、

「自分が本当に困った時に、

 心から本当に頼っている人の名を思わず呼んでしまう」

(=お母さんの姿を見失って、思わず「お母さ~ん」と呼んでしまう)

ことと同じことのように思いました。

 

因みに、親鸞聖人説かれた「念仏」は、

「自ずと」そのような気持ちが起きてくるのは、

私たち衆生を救おうという阿弥陀仏様からの「救いの知らせ」であり、

また、つき動かされるように「念仏」を唱えてしまうことが、

「なんとありがたいことであろうか!」という、

阿弥陀仏様への「感謝の気持ち」も含まれたものなので、

「報恩(ほうおん)念仏」と言われています。

 

また、私は以前、

『私の、仏教が大好きな理由。』という記事の中で、

「念仏」という言葉に触れたことがございました。

 

こちらの記事では、

歎異抄』の第九条で、親鸞聖人の弟子である唯円(ゆいえん)が、

「念仏を唱えても喜ぶ気持ちが湧いてこないのはなぜか」

親鸞聖人に打ち明ける場面があり、

それに対して、「実はわたしも同じような疑問をいだいていた」

親鸞聖人が答える場面のあることをご紹介させていただきました。

 (※お読みいただけたら、幸いです。)

morimariko.hatenablog.jp

 

つまり、「念仏」を唱えるというのは、

「自ずとそのような気持ちが起きてきて唱える」

ということなのだと言っている親鸞聖人が、

「念仏を唱えても喜ぶ気持ちが湧いてこない」

という経験もしているわけです。

 

私は、「念仏」を唱えるにあたり、

多くはまず、「助けて!」と思うような出来事があって、

そして、「救われたい」という気持ちから、すがる思いで、

「念仏を唱えてみよう」という気持ちが起こるのではないか、

と考えています。

 

冒頭のほうで、法然上人における念仏を少々述べましたが、

法然上人の念仏は「専修念仏」であり、

自ら唱えようとする積極的なものなのですが、

このような念仏は、自分にとって、

初めて「意識して唱える念仏」なのであって、

積極的に「自分を救おう」とする大事な行為である、

と私は思っています。

 

以上のことから、私は「念仏」について、

次の二つのことを思いました。

 

一つは、「怖い」とか、「助けて」とか、

「自分が本当に困った時に、

 心から本当に頼っている人の名を思わず呼んでしまう」

という「念仏」です。

 

そして、もう一つは、「ありがたい」とか、「愛している」とか、

「自分にとって、

 大事で大事で仕方がない!と思っている人の名を呼ぶ」

という「念仏」です。

 

ただ、これら二つに共通して思うことなのですが、

名を呼ばれる人に、

自分の名を呼んだ人に対する「応援の気持ち」があるのではないか、

と私は思うのです。

 

きっとあなたは、私を応援してくれる!

きっとあなたは、頼ってもいいと言ってくれる!

だから私は、ぜひ、あなたに応援してもらいたい!

と思うからこそ、

私たちは、その相手の名を呼びたくなるのだと思うのです。

 

因みに私は、自分で自分の名を呼ぶのもいい、

と思っています。

 

例えば、「ワタシ~!ガンバレ~!」「ワタシ~!よくやった~!」

という「念仏」があってもいいと思っています。

 

また、私がその昔、仏教の授業を受けていた時に、

「時々、“念仏を唱えると何かいいことがありますか?”

と問う人がいますが、

いいことがあると思って唱える念仏が

いいことを連れてくるのではなくて、

唱えたいから唱えていただけの念仏が

いいことを連れてくるかもしれない、というだけのことです」

と先生がおっしゃっていたことを今でもよく覚えています。

 

「自ら唱えようとする念仏」も、「自ずと唱えたくなる念仏」も、

「唱えたいから唱える念仏」であるかぎり、

念仏を唱える人は「救われる」、と私は思います。

 

先にも申し上げましたが、

私は、「呼びたくなる名前」「呼ぶと落ち着く名前」が

自分の中にあることは、とても幸せなことだと思っております。

 

(返事が返ってくるかどうかにかかわらず、)

(会えるかどうかにかかわらず、)

「呼びたい」「会いたい」と思う「名前」の

“あてがある”(心当たりがある)こと自体ありがたいことで、

やはり、とても幸せなことだと思います。

 

「呼びたい」「会いたい」と思う「名前」の主であるその人は、

自分を応援してくれる人だから、自分を大事にしてくれる人だから、

「呼びたくなる」「会いたくなる」のであって、

きっと、自分を支える力になっていると思います。

 

皆様の脳裏に浮かぶ「心から求める方のお名前」は、

皆様の生涯を支える「すばらしいお名前」に違いない、

と私は思います。

 

また、脳裏に浮かんでくるような名前がないという方は、

南無阿弥陀仏」というふうに、

阿弥陀仏様の名を呼んでみてはいかがでしょうか?

 

もし、阿弥陀仏様の名を呼び続けた後で、

新たに「心から求める方のお名前」が脳裏に浮かぶ、

ということが起きたら、

どちらを呼んでもいい、両方を呼んでもいい、

と私は思います。

 

私自身が、初めて「念仏」を身近なものに感じた時の、

「私はすでに(お母さ~んという)念仏を唱えたことがあったんだ」

「私は念仏(の相手に)に頼り、支えられて生きてきたんだ」という、

ありがたい気持ちと同時に湧き上がる爽快感を、

また、「これからも念仏を唱えることができる」という喜びを、

この度の記事をお読みくださった方々にも感じていただけることを、

私は、望んでおります。

 

また、阿弥陀仏様がすべての衆生を「救いたがっている」

ということも、皆様にどうか伝わりますように……

願っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

真宗入門』ケネス・タナカ 法蔵館

  真宗入門

歎異抄千葉乗隆 角川学芸出版

  新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

『お経の意味がよくわかる本』鈴木永城 河出書房新社

  イラスト図解版 お経の意味がよくわかる本―素朴な疑問が氷解し、仏の世界が見えてくる

親鸞!感動の人生学』山崎龍明 中経出版

 親鸞! 感動の人生学 (中経の文庫)