世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

禅語「拈華微笑(ねんげみしょう)」。

元号が「平成」から「令和」へ変わってから12日目を迎えました。

 

ゴールデンウィークもすでに終わり、

祝賀ムードが落ち着いてきたように思います。

 

しかし、「令和」という時代に対して何らかの期待をもった雰囲気は、

今も続いているように思います。

 

「(令和が)いい時代になるといいなと思います」

とおっしゃっている方を度々お見かけしましたが、

私もそのように思っております。

 

「平成」という時代は、世の中を見ても個人的にも内容が濃く、

この時代に居合わせ、この時代を経験させていただいたことは、

私自身にはよかったと思っております。

 

そして、「令和」という時代を迎える場面に居合わせたことも

よかったと思いました。

それは、「令和」と言っては微笑み、「令和」と聞いては微笑む……

人々のそのような様子に、

禅語の「拈華微笑(ねんげみしょう)」を感じたからです。

 

『ほっこり、やさしい禅語入門』(P75)という本に、

「拈華微笑」は、次のように説かれています。

 あるとき、説法の場でありがたいお話を聞こうと集まった弟子たちを前に、お釈迦さまは無言のまま優曇華うどんげ)の花を差し出しました。何のことか意味がわからずにいる弟子たちのなかで、唯一、迦葉(かしょう)という弟子だけはその意味をくみとり、ほほえみました。こうしてお釈迦さまの教えは迦葉に伝えられたといわれています。

※文中に「優曇華うどんげ)」という花の名前が出て参りますが、

 他の書物で「金波羅華(こんぱらげ)」と説いているものもあります

 (講談社の『無門関を読む』P72参照(著:秋月龍珉))。

 

さらに言葉を引用させていただきながら、短く申し上げてみますと、

「言葉を交わさずとも、一輪の花を差し出せば、ほほえみだけでお互いの心を伝え合うことができること」が、「拈華微笑」です。

 

また、『明鏡国語辞典』には、「拈華微笑」とは、

「仏教で、ことばでは説明できない仏法の真髄を心から心へと伝えること。また、一般に、ことばを用いずに心から心へと伝えること。以心伝心。」

というふうに書いてありました。

 

私が「令和」という元号を迎えた日本に「拈華微笑」を感じたのは、

「令和」を合言葉にして、人々が平和を願い、夢や希望を持ちながら、

「お互いに、いい時代になるといいよね!」

というメッセージを送り合い、受け取り合い、

あちらこちらに微笑んでいる方がいらっしゃって、

大変多くの方々の間に「以心伝心」があったことを感じて、

気持ちよかったからに違いありません。

 

「令和」を「合言葉」に人々が微笑み合うのは、

「令和」という花が「開花」して人々が微笑み合うのと同じこと、

と私は感じました。

 

「令和という花」と「人」の心が通い合い、

「人」と「人」の心が通い合う、

このような「拈華微笑」が日本という国で見られたことを、

私は大変嬉しく思いました。

 

ただ、「令和」という時代を迎え、笑顔の方を多く見かけたとはいえ、

気がかりなことがあって、「今は笑うことができない」という方も、

何らかの問題を抱えていて、「今はそれどころではない」という方も

いらっしゃると思っております。

 

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、

禅には「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があり、

これをごく簡単に申し上げてしまえば、

「さとりは、文字では伝わらず、心で伝える」

という考え方のことなのですが、

その前提がある中で、「禅語」の位置づけを考えますと、

「禅語」は、それを唱えた人からの「(さとりへの)誘い」

なのだろうと私は思います。

※因みに、「拈華微笑」は、

 中国永代の禅僧無門慧開(むもんえかい)和尚が編集した『無門関』

 という公安集の中にあるものです(『無門関を読む』P3参照)。

 

もし、そこに一輪の花があることに気づかないでいる方に、

「ねぇ、ちょっとこの花を見て!」というように声をかけることは、

「拈華微笑の世界への誘い」になると思います。

それは、

「お釈迦さまが一輪の花を差し出して、あなたが笑うのを待っている」

ことと同じだと思います。

 

また、「一輪の花が咲いていること」や、「その花の美しさ」に、

自ずと気づくこともあると思います。

 

「その花の美しさ」に自ずと気づくことができるのは、

その花が本当に「美しい」からだと私は思います。

その花自身の放つオーラのようなもののおかげで、

こちらが何をせずとも「美しい」ことを真に理解させてもらえる、

ということではないかと私は思うのです。

また、その美しさに人が癒されることがあるのは、

真に「美しい」ことは「優しい」ということでもあるから、

なのだろうと思います。

 

ですので、人は本来、

一輪の花を見つけたら、優しい気持ちになって微笑み、

もし、問題を抱え、気がかりなことがあっても、

そこにある一輪の花に気づけたなら、眺めたくなる、

しかも、優しい気持ちで眺めたくなって癒されていく、

ということがあるのだと私は思っています。

 

ところで、「令和」の二文字は、

日本最古の歌集『万葉集』の「梅花の歌」の序文にある、

「初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。」

の中から選ばれたことは、多くの方がご存知のことと思います。

 

実は、「令和」時代を迎える前に、

偶然、友人が私に梅の花の写真を送ってきてくれていました。

最初はうっとり見ていました。

しばらくして、梅の花が見ているほうを私も見たい気持ちになり、

さらに、その梅の花が見ている方向に“優しい未来”を感じました。f:id:morimariko:20190512224402j:plain

 

また、友人は、

「“思いのまま”という木があって、白梅なのに何故か所々ピンクのお花が…思いのまま、だからでしょうか? 美しかったです」

と言葉を添えてくれていました。f:id:morimariko:20190512224448j:plain

 

友人が、この梅の花の写真を撮ったこと、

友人が、この写真に、言葉を添えて私に送ってきてくれたこと、

ここに、友人から私への「拈華微笑の世界への誘い」があり、

私が、この梅の花の思いのままの“色”にうっとりして、

梅の花が見ている方向に“優しい未来”を感じたこと……

ここに、「梅の花」と「友人」と「私」の「拈華微笑」がありました。

 

今、私のこの記事をお読みくださっている方々の中に、

「私にもそういうことがありました!」という方も、

「私にもそういうことがしょっちゅうあります!」という方も、

いらっしゃるのではないかと思います。

 

自分を笑顔にしてくれる人がいることの幸せを感じながら、

今、笑顔ではない方が、いずれ必ず笑顔になることを信じながら、

たくさんの「心」と「心」が通い合い、

ますます「拈華微笑」で包まれていく世の中を思い浮かべることを、

私は今、楽しんでおります。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

『ほっこり、やさしい禅語入門』石飛博光 成美堂出版

ほっこり、やさしい禅語入門―心豊かな毎日をおくるための禅のことば

『無門関を読む』秋月龍珉 講談社

無門関を読む (講談社学術文庫)

 

※次回の記事更新は、約3箇月先の「8月」を予定しております。

 もし、更新にお気づきいただけましたら、

 そして、皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 幸いに存じます。