世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「自灯明・法灯明」で生きていく。

「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」という、

仏教に出てくる言葉があります。

 

これは、お釈迦様がこの世を去る時に、

弟子のアーナンダさんに言った言葉だと言われています。

 

アーナンダさんは、お釈迦様がこの世からいなくなったら、

悩んだとき、困ったことが起きたとき、

自分には、相談する相手がいなくなってしまうという不安を、

お釈迦様に打ち明けたそうです。

 

そこで、お釈迦様は、

「自灯明・法灯明」の教えを告げたのでした。

 

「自灯明・法灯明」を、『広辞苑』で調べると、

「よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること。」

とありました。

 

「法灯明」にあたる「正しい教えを拠りどころとすること」とは、

仏教だけあって、「仏教の教えを拠りどころとすること」、

ということだと思いますが、

私は、「仏教の教え」に限定した解釈はしていません。

 

私は仏教好きですが、

他の宗教にも、また、誰かが言った一言にも救われたことがあります。

ですから、私にとって、

本当に救いになる言葉や教えは「すべて、よりどころ」であり、

「正しい教え」です。

 

そして、

「自灯明」にあたる「よく整えられた自らを拠りどころとすること」は

「他の誰でもない、秩序だった自分自身を頼りにすること」、

ということだと私は思っています。

 

私は、自分の生き方の根本に、

この「自灯明」を据え置きたいと、日頃から思っています。

 

例えば、

「信じてもおかしくない相手を信じてあてにしたけれども、

あてが外れて、問題は解決しなかった。

しかし、それでも、その人を批判しようとは思わない。

それで、これからどうするかは、また自分で考えてみる」

というのが、

「自灯明」の教えに則った生き方だと私は思っています。

 

因みに、「楽をしよう」と、

ずるいことを考えて人をあてにしたならば、

その人を批判するなんてもってのほかですし、

あてが外れて、ずるいことが成立しなかったなら、

それでよかっただろう、と私は思います。

 

「自灯明」で生きていこうとすれば、

自分に強い責任感が生まれてくると思いますが、

誰かをあてにしないで生きていけるなら、

かえって楽かもしれません。

 

しかし、人は、一人では生きていけないですよね。

人は、期待も依存もしないで、また、人と助け合わずに

生きてはいけない生き物ですよね。

 

もし、何か問題が浮上したときに、

「わざわざ自分が大変な思いをして、

解決しようとしなくてもいいだろう。

そのうち、誰かが何とかするだろう」とか、

「問題が解決しなくても、自分が困るわけではない」とか、

そういう考え方は、

人が、一人では生きていけないことを知っている人には、

私は思ってほしくないです。

 

この、「人は、一人では生きていけないことを知っていて、

世の中の出来事が他人事ではなくて、

何とかできないかと思案して、

誰かと協力しながら、ときには一人でもあっても、挑戦してみる」

という自分が、

「自灯明」が言うところの、「よく整えられた自分」なのではないか、

と私は思います。

 

そういう自分になって、そういう自分を頼りにして……

「自灯明」で生きていこうとするとき、

救いになる言葉や教え「法灯明」が

自分を支えてくれるだろうと思います。

 

 

また、「自灯明・法灯明」は「自燈明・法燈明」と書き表されている

こともよくありますので、念のため申し添えます。

 

 

お読みくださいまして、ありがとうございました。