世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「悪口」と「愚痴」と「批判」について。

今日は、「悪口」と「愚痴」と「批判」のそれぞれの違いについて、

私の考えをはっきりさせてみようと思います。

 

先に、「悪口」と「愚痴」について考えます。

 

広辞苑』で調べると、

「悪口」とは、「人を悪く言うこと、また、その言葉。」

「愚痴」とは、「②言っても仕方のないことを言って嘆くこと。

また、その言葉。」

と書いてありました。

 

少なくとも、「悪口」は人を悪く言うことだから、

いつの日も「言ってはいけないこと」だと思います。

 

しかし、「愚痴」は言っても仕方のないことであり、「嘆き」だから、

「悪い」というほどのことではないだろうと、私は思います。

 

ただ、「愚痴」は、聞いた人が不快になるとか、

言った人がさらに不快になるとか、

そういうことがあるから、

時々、「愚痴を言ってはいけない」

と世間一般で耳にすることがあるのだろうと思います。

 

しかし、誰かに「愚痴を聞いてもらって楽になった」

ということはあると思います。

そして、「楽になった」という、気持ちの良い変化があった以上、

言っても仕方のないことではなかった、と言える

と私は思います。

 

つまり、言っても仕方のないことで「ない」ならば、

そもそも、「愚痴」にあたらず、

言ってもいい、言ったほうがいい、ということも

あると思います。

 

但し、毎日のように、同じことを繰り返し言っていたら、

やはり、「言っても仕方のないこと」に該当し、

それは、「愚痴」と呼ばれることになるでしょう。

 

ただ、もし、「愚痴を言い始めてしまった」としても、

まだ、挽回の余地があると思います。

 

例えば、

職場で、「私に仕事を押しつけて、あの人、すぐいなくなっちゃう」

という場合、

「もうヤダー!」と、誰かに話を聞いてもらって、

また、次の日も、同じく「もうヤダー!」と言っていたのでは、

まちがいなく「愚痴」になってしまいます。

ですから、私は、「もうヤダー!」と言いつつも、

「だから、私、何とかしなければいけないと思うの」

という発展的な言葉を添えて、

「言っても仕方のないこと」にしなければいいと思うのです。

したがって、これは「愚痴ではない」となるわけです。

 

もちろん、「何とかしなければいけないと思うの」

と言うだけではなく、行動が伴わなければならないと思います。

 

職場では、立場上、難しいこともあると思いますが、

人に仕事を押しつけて、すぐいなくなってしまう人には、

できるのであれば、

その人がいなくなる前に、こちらから仕事をお願いしてみるとか、

できないのであれば、

上司に注意や監視をお願いしてみるとか、

が考えられると思います。

 

また、その上司が何もしてくれなくて、「愚痴」をこぼしたくなる

こともあるかもしれませんが、そこでも

「だから、私、何とかしなければいけないと思うの」

という言葉をもってきて、がんばってみてほしいです。

 

ということで、私としては、

「悪口」は、いつの日も「言ってはいけないこと」であり、

「愚痴」は、「繰り返し言っていたら、いけないこと」です。

しかし、

「愚痴」については、それを口にしたところで、

「気持ちの良い変化が望める」

「発展的な言葉が伴われている」

という場合には、「愚痴」に該当しないので「OK」、

という考えです。

 

そして、ここから、「批判」についても考えてみます。

先ほどの、

「私に仕事を押しつけて、あの人、すぐいなくなっちゃう」

というセリフは、

私は、「悪口」だとは思いませんし、「批判」だとも思いません。

これは、「事実」を言っているだけ、だと思います。

 

したがって、

例えば、お店で、

「レジで並んでいたら、横から入ってくる人がいてさぁ~」

というようなセリフも、

「悪口」でもなければ、「批判」でもなく、

そこに起きた「事実」を言っているだけ、だと私は思います。

 

ただ、「レジで並んでいたら、横から入ってくる人がいてさぁ~」

の後に、「だから、嫌になっちゃった」と続くと、

「批判」になり、「愚痴」になる可能性が出てきます。

 

「嫌になっちゃった」は、

そういうことは「いけないこと」と考える価値基準をもった人のセリフ

であって、

その基準に基づいてした「評価」だと思うので、

「批判」にあたると思います。

 

但し、この「批判」も、「愚痴」と同様、

「気持ちの良い変化が望める」

「発展的な言葉が伴われている」

という場合には、「批判」に該当しないわけではないですが「OK」、

と私は考えます。

 

しかし、問題のある「事実」に対して、

批判的な言葉を口にする前に、「正してしまう」

ということができたら、それが、一番いいだろう、

と私は思います。

 

横から入って来た人には、「並んでいます」という「事実」言って、

後ろに回ってもらう、ということです。

(こう言うと、返事もしないで後ろに回る人がいるので、

これもまた、批判したくなりますけどね。)

自分で言えなければ、お店の人に注意してもらうといいと思います。

 

「正してしまう」ことができなかったときは、

「正すために」という条件の下、その「事実」に対して、

「自分の価値基準」に基づいて、「批判」をしていいと思います。

あくまでも、「正すために」という発展的なものがある場合です。

 

また、こうして「批判」をすることが、

他人に対する、「自分の価値基準」の押し付け、

にならないようにする必要があると思います。

 

ですので、

横から入って来た人には、「並んでいます」という「事実を言う」

のであって、いわゆる「お説教」になってしまわないようにしたほうが

いいだろうと思います。

 

本当に、こちらが並んでいたことに気づかず、

うっかり、横入りしてしまった、ということもあると思いますので、

そういう人は、おそらく「あ、すみません」と言うでしょうから、

「お説教」はしなくてもいいですよね。

 

ただ、「並んでいます」と言ったら、その人が後ろに回ったならば、

こちらの価値基準に同意した、

または、実はもともと、こちらと同じ価値基準をもっていた、

と考えられますよね。

(この場合、知っていていけないことをしたことになりますが。)

 

案外、「それはダメでしょ」ということをする人たちも、

こちらの価値基準と同じ基準をもっている、

ということはあるのだと思います。

そうだとすれば、特に、こちらの価値基準の押し付け、という問題は

起きないことになりますね。

 

念のため、『広辞苑』で「批判」を調べました。

「①批評し判定すること。……②人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。」

とのことでした。

 

一応、最後に、私の考えをはっきりと、そして、簡単に

まとめさせていただきますと……

「悪口」は、いつも「ダメ」。

「愚痴」は、繰り返して言うのは「ダメ」。

 発展的なら、愚痴ではなくなるから「OK」。

「批判」は、「正すために」という条件下で「OK」。

 但し、批判の前に「正してしまう」のが一番いい。

ということになりました。

 

 

今日は、私にしては、少々長めな文章になりました。

おつき合いくださいまして、ありがとうございました。