以前、仏教の授業を受けたときに、
先生が教えてくださったお話があります。
どこかにきちんと書いてないかと探してみたのですが、
どうしても見つからないので、私の記憶で、
「一艘の小舟」と題して、お話させていただきます。
「一艘の小舟」
むかし、ある町に、とても信仰心の篤いおばあさんが、一人で暮らしていました。 おばあさんは、毎日毎日、仏様に手を合わせ、「信じる心」にはかなりの自信があったようです。
そして、ある日、そのおばあさんの住む町に、雨が降り始めました。 雨あしはどんどん強くなっていきます。 おばあさんの家の周りの人たちは、避難を始めました。 しかし、おばあさんは避難しようとしません。
空では雷が鳴り響き、もう嵐になっています。 おばあさんを心配して、ご近所の方が、 「おばあさ~ん、おばあさ~ん」と何ども声をかけてくれています。 しかし、おばあさんはゆっくり出てきて戸を開けます。
「おばあさん、無事だった。よかった。逃げよう」 と、ご近所の方はおばあさんに言いました。 しかし、おばあさんは、 「私は行かない。信仰心があるから、必ず仏様が助けてくれる。だから、私は大丈夫」 と言って、逃げようとしません。
ご近所の方は、「ダメだよ。逃げよう」とおばあさんを説得しようとするのですが、おばあさんは耳を傾けてくれません。
おばあさんの家の周辺は、水かさが、どんどん、どんどん増してきています。ご近所の方も、これ以上ここにいたら危険です。 「じゃあ行くよ」 と言って、とうとう行ってしまいました。
おばあさんは部屋に戻って、 「私は仏様を信じています。毎日毎日、手を合わせてきたのだから、大丈夫。絶対助けてくれますよね。私は信じています」 と、仏様に祈っています。
外はもう、大洪水です。
そこに、一艘の小舟に乗って、必死に逃げてきた青年が現れます。 おばあさんの家の窓から、おばあさんの姿が見えた青年は驚いて、 「おばあさん、逃げ遅れちゃったの? 早く乗って!」 と、おばあさんに言います。
しかし、おばあさんは、 「私は行かない。信仰心があるから、必ず仏様が助けてくれる」 と言って、やはり、逃げようとしません。 青年が何度「乗って!」と言っても、おばあさんの気持ちは変わりませんでした。
青年にも身の危険が迫り、とうとう、あきらめて行ってしまいました。
そして、おばあさんの住む町は大洪水にのまれ、おばさんも命を落としてしまいました。
おばあさんは、仏様に言います。 「どうして、信じていたのに助けてくださらなかったのですか」
仏様は、おばあさんに言います。 「だから、一艘の小舟を向けたのですよ」 |
お話は、以上です。
(再度申し上げますが、私の記憶を頼りに書いたお話です。この物語をご存知の方には、誤謬が見られたかもしれません。予め、お詫び申し上げます。)
お話に出てくるおばあさんの、仏様を信じる心は本当に篤かった、
と思います。
しかし、「信じる」とは、どういうことなのかを考えさせられます。
また、この物語からは、
「信じたなら、自ら、手を伸ばす」ことの大事さを私は感じました。
東日本大震災のとき、
年配の、手押し車で歩くのが精一杯というある女性が、
「とにかく、避難しなくては」と道を行くと、
周囲の人が、手押し車ごと助けてくれたと、
後のインタビューでおっしゃっていました。
また、別の女性の方は、
「私を助けていたら、あなたも危ない」と言っても、
「大丈夫だから、一緒に逃げましょう」と助けてくれた人がいた、
とおっしゃっていました。
緊迫の中で、こういったことがあるというのは、
私は、何と言えばいいか、すばらしくて、
なかなか言葉がみつかりません。
「困ったときは、お互い様」というのは本当にあることだと、
このとき、まざまざと感じました。
先ほどの「一艘の小舟」のお話に戻って、
私の考えをもう少し述べさせていただくと、
仏様は、信仰心のある・ないにかかわらず、
「小舟を向ける」のではないか、と私は思います。
ですので、人が「小舟が来たことに気づけない」
「なぜ、小舟が来たのかわからない」
ということがあるだけなのかもしれない、と私は思ったりします。
ただ、少なくとも、小舟に気づくことができたならば、
自ら手を伸ばさなければ、もったいない、と私は思いました。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。