「自分の目に頼ること」について。
河合隼雄先生の『こころの処方箋』という本を、以前読みました。
その本の中に、
「灯を消す方がよく見えることがある」という項があり、
そこには、河合隼雄先生ご自身が、心の中に残り続けているという、
次のお話が書かれていました(P112・113)。
何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなり、そのうち暗闇になってしまい、都合の悪いことに月も出ない。必死になって灯(たいまつだったか?)をかかげて方角を知ろうとするが見当がつかない。
そのうち、一同のなかの知恵のある人が、灯を消せと言う、不思議に思いつつ気迫におされて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の町の明りのために、そちらの方が、ぼうーと明るく見えてきた。そこで帰るべき方角がわかり無事に帰ってきた……。
河合隼雄先生は、
「一般には自分の行手を照らすと考えられている灯を、
消してしまうところが非常に印象的だった」
そうです。
また、この項の文末には(P115)
……目先を照らす役に立っている灯―それは他人から与えられたものであることが多い―を、敢えて消してしまい、闇のなかに目をこらして遠い目標を見出そうとする勇気は、誰にとっても、人生のどこかで必要なことと言っていいのではなかろうか。最近は場あたり的な灯を売る人が増えてきたので、ますます、自分の目に頼って闇の中にものを見る必要が高くなっていると思われる。
と書いてありました。
河合隼雄先生のこのお話とお考えを知って、
また、最近になって、いろいろ考えてみたことも相まって、
私は、目標は、最初、暗闇の中にあるのではないか、
と考えています。
もし、今、灯りのある明るいところにいるならば、
一度、目をつぶってでも、辺りを暗くしてみたほうが、
自分の、本当の目標が見える、ということがあるかもしれません。
そういえば、私は、自分の本心を探るとき、目をつぶります。
これも一つの暗闇で、自ら暗闇を招こうとしているのかもしれません。
それから、私は、あることを思い出しました。
ある仏教の先生(兼僧侶)が、キリスト教やユダヤ教のよいところを、
仏教の授業中に、何度も繰り返し説明していたため、
ある学生が、先生に、
「先生は仏教徒なのに、なぜ、他の宗教をほめてばかりなのですか」
と質問したそうです。
先生は、その学生に、
「どの宗教であろうと、よい教えは、よい教えだからですよ」
と答えたそうです。
また、先生は、さらに、
「宗教は、自分が入っていくものではない。
自分のところへ、よいと思った宗教・教えを取り入れていくのです。
そうでなければ、自分を見失ってしまうかもしれませんよ」
とおっしゃっていました。
このことと、
先ほどの、河合隼雄先生がおっしゃっていた、
「目先を照らす役に立っている灯―それは他人から与えられたものであることが多い」
「最近は場あたり的な灯を売る人が増えてきたので、ますます、自分の目に頼って闇の中にものを見る必要が高くなっている」
という箇所は通ずるものがあるのではないか、
と私は思うのです。
自分は、本当は、どうありたいか、
自分は、本当は、どうしたいのか、
そういう目標を、他人や環境などの影響で、
「見失わないように」「勘違いしないように」ということ。
また、苦しい時も、悲しい時も、「自分の足で立つ」ということ。
こういったことを、私は、教えていただいた気がいたしました。
そして、自分の目に頼って、自分の足で立とうと思ったとき、
暗闇の中の、「ぼうーと明るく見えていた灯り(目標)」は、
本当に、「はっきりとした灯り(目標)」になるのではないか、
と私は思います。
本日も、お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『こころの処方箋』河合隼雄 新潮社