私は、仏教徒ではありませんが、
仏教の教えの多くに共感するものがあり、仏教好きです。
ただ、仏教好きになった最初のきっかけは、
僧侶が唱えるお経に「心が安らいだ」からでした。
そして、それは、
「仏教を勉強しよう」という気持ちにまで発展いたしました。
勉強してみて、仏教はすばらしい、と思いました。
と同時に、「生涯の勉強になりそうだ」とも思いました。
さらに、仏教は「心が安らぐもの、というだけではない」
というのが、本当のところだと、今の私は思っています。
私をこのような考え方に導いてくださったのは、
『仏教の再生―親鸞・不退への道』という本の中に出てくる
いくつかの文章です。
先に、その文章の要点を挙げることにいたします。
「宗教を、自分をまもるための隠れ蓑にしてはならない」。
「宗教が説く教えを知ろうとすれば、自己が問われ、
今まで問うことがなかった問題もあらわれて、
深い闇へと突き落されるかのように、苦しくなる」。
「苦悩を通して、はじめて人間の自立が果たされる」。
(実際の文章が以下です。)
P164
「答えを求めるのが信仰ではなくて、問いを求め、今まで問いともし得なかった問題が私の問題になる、ということが信仰の入り口に立つということだとおもいます。」
P172
「宗教とは、私につかのまの「安心」を与えるものではなく、私を深い闇へと突き落するものであるというところに、その本質があるといえるでしょう。」
P186
「仏教というと、ただ仏に頼って生きることであるように一般にはうけとめられています。しかし、そうではなく、仏のさまざまな教えによって、自己を問い、頼りになる自己を獲得することにあると言えます。決して、仏がかくれみのではないのです。」
P216
「所詮、仏教的に生きるということは、教えによって自己が酷しく問われるという、「苦悩」と共に生きる、ということだとおもいます。そして、その「苦悩」を媒介として、はじめて人間の自立が果たされるのだと考えます。それは、宗教的主体の獲得と言ってもよいでしょう。」
仏教に限らず、「宗教」が説く教えを知ろうとすれば、
「私は、何もわかっていなかった」
「私は、こんな人間だったのか」
「私と真実に、こんなに差があったのか」……
こういったことに気づくことになるから、
「教えを知れば知るほど、苦しくなる」
という側面があるわけです。
しかし、私は先ほど、
僧侶が唱えるお経に「心が安らいだ」と申し上げました。
つまり、仏教で「心が安らいだ」わけですが、
これを、私の錯覚だったと思っているわけではありません。
つまり、
私の思う「仏教・宗教」は、「苦しみ」と「安らぎ」をもたらすもの、
なのです。
私は、以前、『「安心」について。』というブログを
書かせていただいております。
そこでは、
「心が安らかになるためには、「本当のこと」は欠かせません」
「事実から目を背けないことが、「本物の安心」につながる」
「「本物の安心」に向かっている途中では、厳しい言葉を聞くことも
あって当然」
ということを私は述べさせていただきました。
「本当のこと」がわかると、
「苦しんで、安らぐ」のだろうと私は思うのです。
生きている途中、何かに遭遇しては「苦しんで」、
その度に、自分なりの「本当」を探し出し、「納得」して「安らぐ」。
もしかしたら、これが生涯繰り返されるのかもしれないけれど、
その都度「安らぐ」ところまでやろう、
と思えると、「安らぎ」が安定し始めるのではないかと思っています。
このようなことを申し上げている私ですが、
「できることなら、苦しみたくない」と、はっきり思っていますし、
「本当のことが見つからないこともある」と思っています。
ただ、こういう自分の気持ちも「本当なのだ」と認めていることで、
ある意味、安らいでいられます。
また、「本当のことが見つからない」場合、
見つけるのに「いつまで」という期限を設けなければいいだけかな、
と思っていたりしています。
「問う」→「苦しむ」→「安らぐ」が基本的な流れだとすると、
「安らぐ」には、「問う」がまず必要になると思います。
「宗教」が何らかの「答え」をもっていることもあると思いますが、
私は、「宗教」が「答え」そのものではないと思っております。
「宗教」は、
「自己を問うこと」「自分の納得する本当を見つけること」に、
「役立つもの」と私は思っています。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献