命あるものに、必ず死は訪れるといいますが、
残された者にとって、この現実を受け止めることには、
どうしても長い時間が必要になることと存じます。
しかし、どれだけ時間が過ぎようとも、
どうしても受け止められない、という方もいらっしゃるのではないか
と存じます。
そこで、本日は、『真宗入門』という本に載っていました
「キサーゴータミーと芥子の種」(P203)というお話を
ご紹介させていただきたいと存じます。
(※キサーゴータミーは、このお話に出てくる母親の名前です。)
一人の若い母親が子供を病気で亡くしてしまいます。悲しみと苦悩から彼女は死んでしまった子供を抱えて、生き返らせてもらえるかもしれないと期待して、お釈迦さまのところへやって来ます。悲しみ打ちひしがれたこの母親の哀願に対し、お釈迦さまは、町をまわって死を経験したことのない家庭から芥子の種をもらい、一つかみほど集めてくるように指示しました。芥子の種が子供を生き返らせてくれるかもしれないとの希望を胸に、その母親は言われたことを行います。数えきれない家々の玄関をノックしてまわりますが成功はしません。どの家でも肉親の死を経験していたからです。望みは薄くなりつつも母親は残った家々を訪ね続けるのですが、結果は同じことでした。
しかし、突然、彼女は真実にめざめるのです。死は普遍的なものであり、彼女だけが被害者ではなかったのです。生老病死として露わになる無常の人生の現実なのです。……
こうして、母親は、
どうしても受け止められなかった現実を、
受け止めることができました。
このお話は、「現実から目を逸らさない」ことで、
厳しい現実を「受け止めることができるようになる」
ということを伝えているのではないか、と私は思います。
また、「つらいのは私だけではないと気づいた」ならば、
自分と同じように苦しんでいる人へ、
「受け止められるよ」「乗り越えられるよ」と、
どうしても伝えたくなるという作用を、
その後、生み出していく気がいたします。
「死」に限らず、受け止め難い現実に直面することは、
生きていれば、起こり得ることだと思います。
それを、人知れず、乗り越えようとしている方も、
いらっしゃることと思います。
「現実から目を逸らさない」こと、
そして、「つらいのは私だけではないと気づく」こと、
さらに、「気づきに忠実である」こと、
それらができた人に、
厳しい現実を乗り越えた日を迎えることは、約束されている
と私は思います。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『真宗入門』ケネス・タナカ 法蔵館