「日々是好日」(または「日日是好日」)は、
喫茶店などで、墨の文字で書かれ、額に入り、
飾られているのを見かけることがあります。
ですので、ご存知の方も多いかもしれません。
また、「日々是好日」は、
「ひびこれこうじつ」という読み方もあると思いますが、
禅語として読む場合には、
「にちにちこれこうにち」と読むほうがいいようですので、
私もそのようにしております。
そして、その意味は、
『ブッダの教えがわかる本』(P183)よれば、
「日々是好日とは、……分別執着の心を払い去った、安らかで清らかな境地を表した言葉です。つまり、日々が最高最上の日であって、かけがえのない一日であるということです」
と書いてありました。
実は、この文の前(P182,183)には、次のように書かれていました。
「……現実の毎日には、そんなに好い日ばかりではありません。むしろ、不満足な、苦しい嫌なことの多い毎日ではないでしょうか。では、どうして日々是好日なのでしょうか」
「ここでいう、好日とは、悪日に対する好日ではありません」
「本来、好日も悪日もないのです。人の心いかんによって好日になったり、悪日になったりするのです。……たとえよくないことがあっても、心の持ち方により、前向きに奮起し、それを乗り越えることによって好日となるのです」
と書いてありました。
現実社会において、
「今日は、嫌なことがあった」という日は、
もちろんながら私にもあります。
ですので、「日々是好日」(日々が最高最上の日)
と考えることは難しいことではないか、
とかつては思っておりました。
しかし、「日々是好日」の示す「よい日」が、
「良い日」とか「善い日」ではなく、
「好い日」と書き表されていることに気づいてから、
考え方が変わりました。
私は、ここでいう「好日」とは、
「自分好みの行動をとることができて、気分のよかった日」
ではないかと思っています。
「嫌なことがあった日」は「好日ではない」というのではなく、
嫌なことに対して、自分はどういう行動に出たか。
自分好みの行動をとることができたか。
そして、
「自分らしく振舞えたからこそ、気分がよくなった」ならば、
「好日」と考える、ということです。
このような考え方で、
「嫌なことがあった日」をも「好日」にすることの、
その可能性は、自分次第で高められるのではないか、
と今は思っています。
因みに、「気分がよくなった」というのは、
「わだかまりのない状態」であると思っております。
改めて申し上げますと、
私が思う「日々是好日」とは、
「毎日、自分らしく振舞って、気分のよい日」です。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『お経の意味がわかる本』服部祖承 大法輪閣