「今を大事にすること」というのは、
私は、よく耳にする言葉です。
いいことだと思っています。
仏教好きな私は、仏教のお話を引き合いに出してしまいますが、
仏教の開祖・釈尊は、
「死後」について語ったことは非常に少なく、
いつも、「生きている今」を焦点にして教えを説いていた
と言われています。
また、次のようなお話があります。
ブッダの弟子に、「この世が永遠か無限か」「死後は存在するのか」といった形而上学的な質問を繰り返すマールンクヤがいました。
あるとき、マールンクヤはブッダに直談判に行き、「死後の世界の有無について教えてください。はぐらかすようなら私は教団を去ります」と言いました。ブッダは直接返答せず、「ある男が、どこからか飛んできた毒矢に射られた。ところが、矢の刺さった男は、矢を射た人の名前と年齢と素性、矢の毒の材質・材料は何か、すべてがわかるまでこれを抜いてはいけないと言って拒んだため、毒がまわって死んでしまった。死後を知ろうとしても、現世で修めるべきことをおろそかにしては、何も得ることなく死ぬだけだ。しなければならないのは、現世で解脱を得ることだ」こうたとえました。
(『もう一度学びたいブッダの教え』P125より)
私は、死後の世界に興味はあります。
しかし、死後の世界に気を取られて、
今を忘れているわけでもないつもりです。
むしろ、この世を去るときに、
「私は、生きている間、こういうことをした」
というものが、ちゃんと思い浮かぶといいな、
と思っています。
ですので、結局、釈尊が説くように、
わからないかもしれないことにこだわって、
その、わからないことを追求している間に時間が過ぎてしまって、
「何もしなかった」
というふうにならないよう、
日々精進できたらいいな、と思っています。
ですので、私の場合は、
例えば、「私は何者か」とか、
「私はどこから来て、どこへ行くのか」とか、
そういったことに興味をもちつつも、
たとえ、その答えが見つからなくても、
「今、ここに居る」という事実だけで、
十分、「何かやろう」という気になります。
(必ずしも行動が伴うとは限りませんが……。)
また、私は、
人は、ある所からやって来て、ある所へ向かうのだ、
と考えています。
(例えば、あの世からやって来て、あの世へ戻るというふうに。)
そして、
ある所から「今、ここ」に来た私は、
ある所へ向かうまで「今、ここ」に居るわけです。
その私が、その「今、ここ」を満足させられないならば、
「私は何者か」「私はどこから来て、どこへ行くのか」
また、「この世は永遠か無限か」「死後は存在するのか」……
そういった問いに対して、
満足した答えも見つけられないのではないか、
と思います。
また、わからないかもしれないことを問うことが、
無駄であるとは限らないとも思っています。
そのような問いかけが大事であった、
判明して得られた答えも大事であった、
それがわかってみたら、
生きている時間がとても大事であった、
という結論を得られた日が、この世を去る日であった、
という手遅れを嘆かないように、
「今を大事にすること」を、私はしていきたいと思います。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『もう一度学びたいブッダの教え』田上太秀(監修) 西東社