世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「善悪の判断」について。

「善悪」は、人がつくったものだから、

誰も、何が「善」であり、何が「悪」であるかを、

はっきりさせられない、と聞くことがあります。

 

また、「本当は、善も悪もない」ということも耳にします。

 

そのような考えに共感する点もあるのですが、

現在のところ、

私は、「善」と「悪」を区別しようとする人間です。

 

世の中には、いろいろな人が存在するので、

ある程度、「善悪」の共通認識がなければ、

世の中の秩序は保たれないと思っていますので、

「善」と「悪」の区別は「必要」、と思っています。

 

但し、あくまでも、

「世の中の秩序を保つため」に「必要」という趣旨ですので、

世の中の秩序を保つことと関係のなさそうな事柄については、

わざわざ「善」と「悪」に区別しようとは思っていないです。

 

また、「善」とは何かを考えることができるのは、

世の中に「悪」があるからだろうと思います。

ですので、「悪」は、「善」の理解を助けている気がいたします。

ただ、「善」の理解を助けているはずの「悪」が優勢になり、

「善」が劣勢になると世の中は歪む、と私は考えており、

「善」が劣勢にならないよう、

「善」とは何かをよく考えるのがいい、とも思っています。

 

区別の種類には、「善である」「悪である」のほか、

「善ではないが悪でもない」とか、

「悪ではないが善でもない」などもある、

と思っています。

 

そして、私は、世間に見られる「善悪の判断」の多くを、

「人」が行ってきただろうと思っています。

(たとえば、「神様」の「判断」が流布しているわけではないだろう、

と思っています。)

 

ですので、あることについて、「善悪の判断」をしようという場合、

「人」である私は、その「議論」に参加したほうがいいだろう、

と思っています。

 

しかし、「人」は、まちがえることがありますので、

「善」とは「これである」というように断言するのではなく、

議論や思考を重ねた上で「これが善であると信じる」

という程度が一番いいのではないかと思っています。

 

例えば、電車の中で、

「若者が、年配者に席を譲ること」は「善」のように思います。

しかし、「体調の悪い若者が、元気そうな年配者に席を譲ること」は、

しなくても「悪」ではないだろう、と私は思っており、

このような判断・議論を人と盛んに行って、

自分でもよく考えて、自分の信じる見解を見つけるのがよい、

と思うのです。

 

因みに、「人間」が判断する「善悪」とは別個に、

「神様」が判断する「善悪」というものもあるだろう、

と私は思っています。

 

旧約聖書』の「創世記」に、

人類の祖であるアダムとエバ(イヴ)が

神様に禁じられていた、善悪を知る木の実を食べてしまい、

神の怒りに触れた、というお話がありますが、

この、善悪を知る木の実を食べてしまった罪が人類へ受け継がれて、

だから、人は生まれながらして「原罪を負っている」

というお話になっていくわけですが、

神様は、アダムとエバが木の実を食べてしまうことを知っていた、

とも聞きます。

 

ですので、神様は、人と人が一緒に過ごすこの世界に、

人と人が一緒に「善悪」を考えることを、

とりわけ、「善」を見つけることを、

望んでいらっしゃったのではないか、

と私は想像しています。

 

例えば、私は、「善悪」を判断して、

「人を殺してはいけない」と思っています。

人間レベルの私が判断したことです。

 

しかし、神様も「人を殺してはいけない」と言うと思います。

 

つまり、「人を殺してはいけない」というのは、

神様も人間も同じ考えだと思っています。

 

しかし、神様は、人を殺してしまった人をも救うと思います。

だから、「神様」なのだろうと思います。

 

もし、肉親が何者かによって殺されてしまったとしたら、

人である私は、犯人を許す・救うことなどできないだろうと思います。

しかし、人が、人を殺してしまった人を救おうとしない場合、

これを、「悪」とは言えないと思っています。

ただ、これが、「善」になることもない、と思っています。

 

さらに、「悪人」や、「悪」と思ったことを、

怒りにまかせて「やっつける」とするのも「善」ではない、

と思っています。

 

そして、(できる・できないにかかわらず申し上げますが、)

「悪」なるものを、「善」へと導く、ということが、

「悪」に対して、「善」がすること、なのだろうと思っています。

そうすると、

「善」と「悪」は、必ずしも対立関係にあるわけではない、

ということも考えられてきます。 

 

私は、このように、「善悪」を気にしており、

ときには、「人間」の考える「善悪」だけでなく、

「神様」の視点における「善悪」も気になっています。

 

冒頭のほうで、

「善も悪もない」ということも耳にすると申し上げましたが、

私にはこれが、

「善悪を区別しないこと」をよしとして、

「善悪を区別すること」はよくない

と言っているように聞こえています。

 

もし、私の聞こえた通りだとすると、

「善も悪もない」という発想は、

「善悪の区別」について、

「善悪」の判断をしていることになる、

と私は思います。

 

ですので、人間は、(知らない間に)「善悪の判断をしてしまう」

または、「善悪が気になってしまう」ものなのだと思います。

 

「善悪」という言葉で記事を書いて参りましたが、

「気になることを、そのまま考えてみる」というだけでも、

いいのかもしれません。

私は、これからも考えを重ねていきたいと思っています。

 

 

お読みくださいまして、どうもありがとうございました。

 

参考文献

『よくわかるキリスト教』土井かおる(監修) PHP研究所

 よくわかるキリスト教