世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

禅語「挨拶(あいさつ)」。

今日は、「挨拶(あいさつ)」について述べてみたいと思います。

 

私たちが、日常の中で行っている「挨拶」は、

(ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、)

仏教にルーツがあり、禅語でもあります。

 

「挨拶」は、本来、

禅僧である「師匠」が「弟子」に問いかけをして、

弟子の「さとりの進み具合」を確かめるためのもの、

だったそうです。

(弟子同士でも問いかけ合っていたそうですが……。)

 

因みに、『明鏡国語辞典』で調べると

「挨拶」の「挨」には「おす。おしすすめる。」という意味が、

「挨拶」の「拶」には「せまる。すりよる。」という意味がある

と書かれています。

 

「師匠」におされて(何かを尋ねられて)、

せまられた(何らかの返事をしなければならない)「弟子」の、

表情、声、しぐさ、そして、口にした答えはどのようなものか……。

 

こう考えると、お弟子さんにとって、「挨拶」は、

緊張するものだったかもしれないですね。

 

しかし、ここから始まった「挨拶」ですが、

今日、私たちの日常生活では、

例えば、

「こんにちは」と言うと、

「こんにちは」と返ってくることや、

「ありがとう」と言うと、

「どういたしまして」と返ってくることで、

「明るいムード」が漂い、気分がよくなることは、

多くの方々が実感されていることと存じます。

 

また、いつも「挨拶」を交わす相手が

いつもと違う雰囲気で「挨拶」してくると、

「どうしたのかな?」と思うことがあると思います。

 

そこで、私は思うのです。

いつもより「明るい」というのなら、いいのですが、

いつもより「暗い」場合のことを思うと、

「挨拶」には、「SOS」のはたらきがある、と。

 

いつもより「暗い」挨拶をする相手を

「どうしたのかな?」と思うということは、

相手の「SOS」に気づくことができる、

ということではないかと思うのです。

 

逆に、自分につらいことがあって、

いつも通りに挨拶したつもりでも、

いつも「挨拶」を交わしている相手は、

見抜いてくるかもしれません。

 

つまり、自ら積極的にはできないSOSを、

いつも「挨拶」を交わしている相手なら、

気づいてくれるかもしれない、と思うのです。

 

きっと、「どうかしたの?」「いつもと違うね?」

などと声をかけてくれると思うのです。

 

お互いの変化に気づくことができるのは、

「いつも」挨拶を交わすから、だと思います。

 

私は、このような意味でも、日常の中で、

人々の中で「挨拶」が大事にされるといいな、

と思っています。

 

 

本日も、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。