世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

私は、菩薩様が好きです。

今日は、私の、菩薩様に対する思いについて、

述べさせていただこうと思います。

 

「菩薩」を『広辞苑』で確認すると、

「さとりを求めて修行する人」と書いてありました。

 

この「さとりを求めて修行する人=菩薩」には二つの見方があり、

「さとりを開く前のお釈迦様を菩薩」と捉える場合と、

「さとり求める人ならどなたでも菩薩」と捉える場合があり、

日本に伝わっている仏教(=大乗(だいじょう)仏教)は、

後者、(さとり求める人ならどなたでも菩薩)を唱えています。

 

私は日本人だからかもしれませんが、

「さとり求める人ならどなたでも菩薩」

ととらえるほうがしっくり行く感じがしています。

 

菩薩様には、

世の中を観て(=心の眼で見て)、

世の中の音を聴く(=救いを求める衆生の声を聴く)という

「観音(かんのん)菩薩様=観世音(かんぜおん)菩薩様」、

お釈迦様が亡くなってから、56億7千万年後に、

衆生を救うためにこの世に現れるという

「弥勒(みろく)菩薩様」、

弥勒菩薩様が現れるまで、衆生を救い、導くという

地蔵菩薩様」など……

このほかにも、いろいろな菩薩様がいらっしゃいますが、

私は、どちらの菩薩様も大好きです。

 

そして、さとりを求めて修行している菩薩様ですが、

本当は、すでに「さとる力を備えている」と言われています。

 

ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

人間のいる世界は、「迷いの世界」であり、

「此岸(しがん)」と呼ばれていますが、

神仏のいる世界は、「迷いのない、さとりの世界」であり、

「彼岸(ひがん)」と呼ばれています。

 

菩薩様は、私たちと共に「此岸」にいらっしゃいますが、

本来、さとる力がある方なので、

本当は、すでに「彼岸」に渡っていてもおかしくない方です。

 

それでも、菩薩様は、

迷える私たち全員を「彼岸」に渡らせることを

「誓願」として打ち立て、

敢えてさとらないことで「此岸」にとどまり、

すぐそばで私たちに寄り添い、励まし、導くことを

決意してくださいました。

 

私は、このことを知ってから、菩薩様が大好きになりました。

 

私は、日常の中で、

家族のこと、仕事のこと、健康のことなどで、

不安になることがあります。

 

しかし、菩薩様の存在とその誓願を知ってから、

「心が一人ぼっち」という状態になる不安からは、

解消された、と思っております。

 

但し、菩薩様が大好きな私でも、

その存在を忘れてしまうことはあります。

 

そういう場合(その存在を忘れてしまう場合)に、

私に「不安」や「迷い」が生じるようです。

 

例えば、私には、(議論?口論?の末、)

「誰とも意見が合わない」ということがあります。

 

そういうときは、興奮してしまっているせいか、

菩薩様の存在を忘れて、「心が一人ぼっち」

になってしまうことがあるのです。

 

ですので、私が菩薩様の存在を忘れさえしなければ、

「心が一人ぼっち」になるという不安はない、

という感じで、今日を過ごしております。

 

また、菩薩様は「人」の形をして現れることがあると聞きます。

 

ですので、実際に、皆様の周りに、

自分がつらい時に「寄り添ってくれる人」がいるという場合、

その人は、本当は「菩薩様」なのかもしれない、と私は思います。

 

今、この記事をお読みくださっている方の中に、

私の申し上げていることに頷けないとか、

菩薩様の存在を信じられないとか、

「だから私は、心が一人ぼっちだと思う」

という方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、菩薩様は、自分の存在を信じているかどうかに関わらず、

また、その人の行いの善し悪しなどにも関わらず、

どなたにも寄り添ってくださるお方です。

(但し、寄り添い方、導き方などは、千差万別のようですが。)

 

ですので、実際に、

自分がつらい時に寄り添ってくれる人がいないとしても、

すべての人に寄り添うという菩薩様の存在に、

気づくことができさえすれば、

本来、「心が一人ぼっち」という方はいない、

と私は考えています。

 

ここで、「私の場合は」になりますが、

私が「菩薩様」の存在を感じるときについてのお話を

させていただこうと思います。

 

以前ご近所で、

シャクナゲのつぼみ」を見かけました。

その写真が↓これです(撮るのがとても下手な私で残念ですが)。

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私は、見た瞬間、「あっ、菩薩様!」と思いました。

 

シャクナゲのつぼみ」が、

「菩薩様がちょっと首をかしげている」ように見えたのです。

 

やわらかくあたる陽が、とても似合う、

凛として、品のある、やさしそうな表情……

 

しばらく眺めていると、今度は、

シャクナゲのつぼみ」が、

人が合掌している「手」に見えてきました。

 

そして私は、この時から、

「人が合掌する手」と「その姿」に、

「菩薩様」を感じるようになりました。

 

「合掌」は、

お食事の前後に「いただきます」「ごちそうさまでした」と言ったり、

どなたかに「ありがとう」「ごめんなさい」「お願い!」と言ったり、

また、お焼香のとき、お経をあげるときなどにしていると思います。

 

私は、人が純粋な気持ちで合掌すると、

その手に「菩薩様が宿る」という感じがするのです。

 

私は、合掌して目をつぶると、

菩薩様がそばにいてくださる、というよりは、

私の中に、少し入ってきてくださる、と感じることがあります。

 

合掌したままお経を唱えれば、

「菩薩様が一緒に唱えてくださっている」

と感じることもあります。

 

また、例えば、嫌なことに心を奪われたり、

自分の至らなさに落胆したりして、

大きくため息をついたあとに、

「よし、がんばろう」と思い立って「顔を上げる」

といったことが、これまで生きてきた中で、

何度か、私にはありました。

 

この、「顔を上げた」その瞬間に、私のちょっと後ろで、

菩薩様が「ほほえんだ」と感じることもあります。

 

私は、このように「菩薩様」の存在を感じております。

 

何があっても、私がどのようであっても、

菩薩様は、私よりも、

先に彼岸に渡って行ってしまうことはありません。

 

こうして、私は菩薩様から「安心」をいただいております。

 

そして、私は、

菩薩様の誓願がかなわない、ということのないように、

すべての人が彼岸に渡ったからこそ、

菩薩様も彼岸に渡ってくることができるように、

私もいつかちゃんと彼岸に渡ることで、

大好きな菩薩様へ、恩返しができたら……

と思っております。

 

 

本日も、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

 

参考文献

『日本仏教がわかる本』服部祖承 大法輪閣

 日本仏教がわかる本―仏教を学ぶ

『お経がわかる本』藤井正雄(総監修) 双葉社

 お経がわかる本 (わが家の宗教を知るシリーズ)