世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

私は「他力も自力も必要」と思っています。

※本日は、長めの文章です(文字数は4000字程度です)。

 皆様に、許すお時間があるときにお読みいただけたら幸いです。

 

今日は、「他力(たりき)」と「自力(じりき)」について、

私の考えを述べさせていただこうと思います。

 

広辞苑』によると、

「他力」とは、

「①仏・菩薩の加護の力。

  浄土門において阿弥陀仏の本願の力により往生することをいう。

 ②他人の助力。」

と書いてあり、

「自力」とは、

「①自分ひとりの力。独力。

 ②自分の力で修行してさとりを得ようとすること。」

と書いてありました。

 

仏教には様々な教えや宗派があり、様々な分類方法がありますが、

やはり、「他力」を主張する仏教と、「自力」を主張する仏教に、

分ける方法があります。

 

浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)は、

著書『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』

の中で、

・自己の修行によってさとりに至る「自力」を

 「聖道門(しょうどうもん)」

阿弥陀仏の力によって救われる「他力」を

 「浄土門(じょうどもん)」

とし、分けた経緯やその意図を伝えていらっしゃいます。

 

※因みに、『選択本願念仏集』は、

 浄土宗では「せんちゃくほんがんねんぶつしゅう」と読み、

 浄土真宗では「せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」と読みます

 ことを申し添えておきます。

 

浄土宗や浄土真宗では、

「自力」を捨てて、「他力」を選び取ることをすすめています。

 

ですが、私は、「さとりに至る」とか「救われる」とか、

また、「何かを成し遂げる」といったことには、

「他力も自力も必要」、と考えております。

 

(因みに、私は法然上人が大好きなのですが、

 この度の私は、法然上人と違う意見を述べることになります。)

 

現実社会に身を置く自分を考えたとき、

何でも自分一人でできるとは思えませんが、

だからといって、何も自分一人ではできないとも思えません。

 

私は、基本的には、

「まず、自分一人でやってみる。

 自分一人では無理だなと思ったら、

 他者に応援を要請する」

というのが、理想的なのではないかと思っています。

 

また、ある事について、「他者に頼っていいのかわからない」

ということもあると思いますが、

私は、「自力では無理みたいだ」と思ったら、

それはもともと「他者・他力」を必要とする事柄なのだ、

と考えて、他者に頼ってみていいのではないか、

と思います。

 

また、「人は、一人では生きていけない」と思う方は、

自分も「他者を必要とすることがある」と思うはずで、

逆に、「他者を必要とすることがある」という方は、

「人は、一人では生きていけない」と思っている人、

と言えると思います。

 

もともと「他者・他力」を必要とする事柄なのだとしたら、

それが「自力」で達成できないのは当然であり、

つまり、達成できないのは、

「自力(自分の努力)が足らないからではない。

 他力が足らないのである」

ということもあると私は思っています。

 

このような私は、

「人は、一人では生きていけない」と思っている人です。

 

また、「他力」と「自力」について、

私の考えをさらに述べさせていただくにあたり、

『真宗入門』という本に載っていた

「海で漂流した船乗り」(P1~3)

というお話をご紹介させてください。

 

お話は少々長めになりますが、全文、載せさせていただきます。

(私が後で触れたい箇所を太字にしております。)

 「海で漂流した船乗り」

  一艘の船が、ある熱帯の島から出航しました。陸を遠く離れて何時間も航海した頃、一人の船員が誤って海に落ちてしまいました。他の乗組員は誰もそのことに気づかず、船はそのまま航行してしまいました。水は冷たく、波は荒く、真っ暗闇でした。大海の真っ只中で、その男は沈まないように死に物狂いで足をばたつかせます。

 やがて海に落ちる前に見た島に向かって泳ごうとするのですが、すでに方向感覚を失っており、方向が正しいかどうか確信が持てません。船乗りですから泳ぎは上手なのですが、腕も足もすぐに疲れ果てて、胸も苦しくなって喘(あえ)いでいました。大海の中で迷い完全に孤独になってしまった男は、もうこれでおしまいかと思いました。絶望の中、男のエネルギーは砂時計の砂のように消耗していきました。顔を打つ海水を飲み込んで息ができなくなり、体が海の底に引きずり込まれるような気がし始めています。

 その時、海の深淵から声が聞こえてきたのです。「力を抜きなさい。力むのを止めなさい。そのままでいいのです。南無阿弥陀仏

 その声を聞いた船乗りは、自分の力だけでむやみに泳ぐことを止めてみました。夏の昼下がりに裏庭のハンモックの上でのんびりするように、くるりと仰向けになって足を伸ばしてみました。すると、力まなくても海が自分を支え浮かせてくれることを知り、大喜びしたのでした。

 今や水は温かく感じられ、波も穏やかになっていました。海底に引きずり込もうとしたかに思えた海は、今は優しくなだめてくれているようでした。助かったと知り喜んだ船乗りは心から感謝しました。そして「本当は初めからずっと大丈夫だったのだ」ということに気がついたのです。ただそれを知らなかっただけなのです。海はまったく変わっていないのに彼の考え方が変わったので、この船乗りと海との関係も変わったのでした。海は危険で恐ろしい敵から、彼を支え守ってくれる友となったのです。

 しかし永遠に大海の真っ只中で浮かんではいられません。もしこの世に未練がなかったなら、この喜ばしき静寂の中にもう少し留まることもできたでしょうが、家で心配して待っている妻子の姿が目に浮かび、岸にたどり着くべくまた泳ぎ始めたのでした。

 それから前と同じように泳ぎ始めたのですが、前とは一つだけ違っていました。今では海を、自分を愛し支えてくれる人々と同じように信頼できるのです。疲れたら力を抜いて、常に支えてくれる海に身を任せることができるのです。大切なことは、泳ぐ時に自分を浮かせてくれているものは、自分自身の力ではなく海の力だと船乗りが気づいたことです。確かに自分の手足を使って泳がなければならないのですが、力まなくても浮かんでいられるという真理に船乗りはめざめたのでした。

 さて海に抱かれて安心した船乗りは、島を見つけようとする余裕が出てきました。星や月の方位と風向きを調べ、船乗りとしての経験を活かして島がありそうな方向に泳いで行きました。今度も正しい方向に泳いでいるかどうか自信はなかったのですが、海は自分を絶対に見捨てないという確信が今の船乗りにはありました。やがて島にたどり着くことができた船乗りは、生きるための新たな自信と喜びを味わうことができたのでした。無意識に「南無阿弥陀仏」と感謝の念仏を唱えている自分自身の声を聞きながら……。

 

この本の著者であるケネス・タナカ氏は、このお話を、

浄土真宗の教えの「核心」をつかんでいるお話として、

ご紹介くださっていました。

 

つまり、「他力」のはたらきに気づくこと、

そしてそれを信じること、その力に任せてみること……

こういったことを私たちに伝えようとしているのだ、

と私は解釈しました。

 

但し、私は「自力も必要」という考えも持っておりますので、

先ほどの「海で漂流した船乗り」のお話に出てくる

力まなくても海が自分を支え浮かせてくれること」は、

「他力」だと思っていますが、

確かに自分の手足を使って泳がなければならない」は、

「自力」だと思っています。

 

自分の手足は、

自分だけでつくって守ってきたものではないと思いますし、

「手足を動かそう」と自ら思ったとしても、

そういうふうに自分を掻き立てたものがあったから、

動かす気になったのだ、ということもあると思います。

 

ですので、厳密に言えば、

「自力」は、「他力」なしではできなかったもの、

といえると思います。

 

しかし、それでも私は、

力んで、一生懸命泳げば疲れてしまう「自分の手足」を

実際に動かした、その力の部分は(少なくとも)「自力」、

と考えています。

 

また、浄土宗や浄土真宗などの仏教では、

「他力」というと、「阿弥陀仏の力」を指していますが、

私は、

仏教について考えるうえでも、現実社会について考えるうえでも、

阿弥陀仏の力」と「他者の力(=自分以外の人・物などの力)」

の両方を合わせて「他力」、と考えています。

 

つまり、

家族の力、友人の力、通りすがりに出会う人の力、

自然の力、動物の力、音楽の力、時間の力など……

自分以外の力は、私にとって皆「他力」です。

 

先ほどの「海で漂流した船乗り」のお話の中の、

浮かんでいられるからこそ泳げるのだ、

というお話を思うと、

基本的には、「他力」があって(「他力」のおかげで)、

だから「自力」が生きてくるのだと思えます。

 

しかし、うまくいかないことがあって、

困難に負けてしまいそうになって、

それでも、「他力」を求めようとする力は「自力」、

ということもあると思います。

 

そして、

「他力」が足らない部分を、

「自力」で補おうとする人もいると思います。

そういう人を、また別の「他力」が手伝うこともある、

と思います。

 

つまり、「自力」の影響で出現する「他力」もある、

と私は思うのです。

 

そうすると、私には、「他力」と「自力」は、

求め合っているような、

協力し合っているような関係にも見えてきました。

 

以上のようなことから、

私は、「他力も自力も必要」と思っています。

 

 

本日もお読みいただきまして、

また、長文にお付き合いいただきまして、

どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

『選択本願念仏集』法然(著) 大橋俊雄(校注) 岩波書店

 選択本願念仏集 (岩波文庫)

『真宗入門』ケネス・タナカ 法蔵館

 真宗入門