「非僧非俗(ひそうひぞく)」について。
ご自分に向けておっしゃった言葉と言われている、
「非僧非俗(ひそうひぞく)」について、
述べさせていただこうと思います。
「非僧」は、「僧に非ず(そうにあらず)」=「僧ではない」、
「非俗」は、「俗に非ず(ぞくにあらず)」=「俗ではない」、
ということですので、
「悲僧非俗」は、「私は僧侶ではないが、俗人でもない」
という意味になります、ね。
親鸞聖人が「非僧非俗」とおっしゃったことの背景や意図には、
様々なことがあるようです。
いくつかご紹介させていただきますと……
「念仏を称えれば誰でも救われる」と説いた方ですが、
この教えは、手軽(簡素な教え)であることや、
誰でも救われるというありがたさなど、
修行僧ではない民衆をも救う教えでした。
それまでの仏教にはなかった民衆をも救う教えは、
ものすごい人気となり、多くの民衆から指示され、
既存の仏教などから妬まれ、
ついには、「罪人」とまでされていまいます。
「僧侶の資格を剥奪された」ことで、
親鸞聖人は自らを「非僧」と表現したようです。
しかし、この頃の仏教は権力に溺れ、堕落していたため、
このような「真の仏教ではないものとは決別するのだ」
という親鸞聖人の思いが「非僧」という表現になった、
ということでもあるようです。
また、親鸞聖人はもともと、
「煩悩深き悪人の自覚」があり、
これも、「非僧」という表現につながったようです。
※因みに親鸞聖人は、
「承元の法難」の直前は「善信(ぜんしん)」と名乗っており、
その後「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と名乗り、
さらにその後、再び「善信」と名乗ったり……と、
名前を使い分けしていたようです。
(名乗った名はこれ以外にもあります。)
また、親鸞聖人は、煩悩深き、悪人たる自分をも救う、
「真の仏教が人々を救う」と強く信じ、
世俗に染まらない「真の仏教で生きる」強い決心を、
「非俗=俗人ではない」と表現したようです。
親鸞聖人は、流罪になった先で布教してしまうという、
タフな方。
そのお姿から、決意の強さが伝わってまいります。
以上のように、
「真の仏教ではないものとの決別」
「煩悩深き悪人の自覚」
世俗に染まらない「真の仏教で生きる」強い決心などが、
親鸞聖人の「非僧非俗」という立場を主張した理由だったようです。
そして私は……
(ここからは、私の個人的な考えです)
「非僧非俗」という文字を始めて見た時、
仏教とは関係のないことで連想したことがあり、
それは、私に向けてのメッセージではないか、
と思いました。
まず、「非僧」という文字から、
私は、「あなたは僧ではないですよね」
と言われている気がしました。
そして、
さとりを得ることをはっきりと目指している僧と同じようには、
「私は、私自身の目標を目指し切れていない」
ということに気がつきました。
目標をもつことは、いいことだと思っています。
そして、私が「ある目標をもつ」ということは、
「それができていないから、目標であり続けている」
ということが言えると思います。
もちろん、
目標をもったことだけで満足しているつもりはないのですが、
途中、「驕らないように」気をつけなければなりません。
私は、「非僧」という文字から、
「あなたは僧ではない。決して、驕らないように」
という声を聞いたように思ったのです。
そして、「非俗」という文字からは、
「人は、けっこう力があるよ」と聞こえた気がしました。
「人は、困難や煩悩に負けて終わるわけではない」と。
生きていると、困難がやってくる。煩悩が顔を出す。
驕りもすれば、凹みもするだろうけれど、
「困難や煩悩に負けて終わる私ではない」と、
その時、思えてきました。
このように、私にとって、
「非僧」「非俗」は、「驕るな」「負けるな」
という意味で伝わってきました。
またこれは、両方が同時にあってちょうどいい、
と思っています。
「驕るな、負けるな」は、
「叱咤」と「激励」のようでもあります。
私は、「驕るな、負けるな」という連想が起きてくる、
この「非僧非俗」という文字を、
これからも続く私の人生に携えておきたい、
と思っております。
ご自分に向けておっしゃった「非僧非俗」を、
私も、私に向けて、自由に解釈させていだだきました。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
参考文献