世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「自由」について。

本日は、「自由」について、述べてみたいと思います。

 

明鏡国語辞典』によれば、「自由」とは、

「他から強制や命令をうけることなく、自分の思いどおりにできること。」

と書いてありました。

 

強制や命令、また、義務や束縛など、その内容にもよりますが、

(その内容についてはさておき、)

私は、私自身については、

日常生活の中に“~しなければならない”というものがないと、

自分を律することができないと思っており、

「基本的には自由で、少々“~しなければならない”がある」

という状態が「ちょうどいい」と思っています。

 

また、(あくまでも、私自身の考えではありますが、)

何の束縛もない自由には、

時に、「寂しさ」を感じることがあります。

 

そして、この度、「自由」について述べようと思った時、

まず、思い浮かんだのは、「行雲流水(こううんりゅうすい)」

という禅語でした。

 

「行雲流水」について、

『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』という禅語の本には、

次のように書いてあります(P128)。

 修行僧の別名は雲水。この雲水という言葉、じつは「行雲流水」という禅語を二字に縮めたもの。……大空を行く雲、谷川を流れる水。一所に定住することなく、何ものにも縛られず、師を求めて自由自在に各地を行脚する修行僧の姿を、雲や水といった自然の運行に見立てているのです。 

私のほうで太字にさせていただいた箇所、

大空を行く雲、谷川を流れる水。一所に定住することなく

(=雲が行き、水が流れるように「一か所にとどまらない」)

という言葉には、

「一つの概念に縛られないこと」や、

「新たな感覚を拒まないこと」という意味が含まれていて、

さらに、好きなだけ「立ち止まって」

納得のうえで、「大らかに」次の一歩を踏み出すという意味も、

きっと含まれているだろうと、私は解釈しています。

 

私が、「立ち止まって」「大らかに」と付け加えているのは、

時に、「自分をさえぎらず、かつ、他との調和もさえぎらない」

とするにはどうしたらいいかを「立ち止まって」考えなければ

わからない、ということもあると思うからであり、

考えた結果踏み出す一歩は、「大らか」だろうと思うからです。

 

そして、次のページには、次のように書いてあります(P129)。 

 自由とは、自らに由(よ)ること。行動の基準を他に由るのではなく、自らの精神に由るということ。欲に由るのでもありません。精神に由ることで、正しい行動ができる状態に自分を保つ。それが自由であることの本当の意味です。 

 やりたいことを好き勝手にやることは、自由ではない。それはなぜか。何が正しいかを考え、正しく行動できるから自由であるのに、欲に突き動かされるのでは、心は不自由そのものだからです。精神がまったく自由になれていません。 

欲に突き動かされたり、怒りに支配されてしまったりして、

自らをコントロールできなくなれば、とらわれの身であり、

心が「不自由」な状態であると、私も思います。

 

(また、このような、心が「不自由」な状態である人から影響を受け、

こちらも、とらわれの身になってしまうこともあるように思います。)

 

そして、「自らの精神に由る」とか、「精神が自由」とか、

そういった言葉から、さらに私が思い浮かぶのは、

「良心」です。

 

私は、「良心」というのは、「自分に一番身近な神様である」

と聞いたことがあります。

(これは、ある本に書いてあったのですが、

どの本か思い出せません。申し訳ございません。)

 

これまで生きていて、欲に突き動かされそうになったり、

怒りに支配されたり、迷いを生じたりして、

苦しんだご経験がある方もいらっしゃると思いますが、

何かを欲し、怒り、迷うという場面で「苦しむ」のは、

「良心」があることが理由、ということもあると私は思います。

(良心がなければ苦しまない、と私は思うのです。)

 

ただ、「良心に目を背けたことで良心が痛んだ」

という自分の心にさえ目を背けると、

ずっと心の不自由が続いて、

苦しさも続いてしまうように思います。

 

(躊躇の後、)良心にしたがって取った行動に、

「これが、本当に私がしたい行動だった」と

“満足”したご経験がある方もいらっしゃると思います。

これが、まさに、「自由」という状態だと思います。

 

いつも、「自分の良心にしたがう」ことができれば、

心の不自由がなくなるのではないか、と私は思います。

 

「自分の良心にしたがう」と言っても、

「良心」は、その人の心の中に、

その人なりに持っているものだと思いますので、

決して、強制や命令、義務や束縛などではない、

と私は思っています。

 

ここまで述べてきたことをもって、

私の思う「自由」について、できるだけ短く申し上げますと、

「良心という、自分に一番身近な神様に自ら好んでしたがいながら、

雲が行き、水が流れるように、心を縛ることをしないから、

(例えば、「立ち止まる」にも「立ち止まらない」にもとらわれず、

また、自分をさえぎらず、かつ、他との調和もさえぎらないから、)

“満足”である」

というものです。

 

私はまだ、「自由」を手に入れてはおりません。

これからです!

 

皆様にも、皆様の思う「自由」があると思います。

 

皆様が、“満足”を感じる「自由」で日々お過ごしになることを、

願っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』佐藤隆定 国書刊行会

 糧になる禅語 いまを充実させる生き方