世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

除夜の鐘を鳴らすことについて。

本年最後の記事を書かせていただきます。

 

当ブログにお越しくださいました皆様、

そして、当ブログを気にかけてくださいました皆様に

心から感謝いたしております。

どうもありがとうございました。

 

今年も12月に入り、大晦日が近づいて参りました。

 

ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

晦日の夜に「百八つ(108)の除夜の鐘」が鳴りますが、

これは、人に「百八つの煩悩(ぼんのう)」があるからだそうです。

 

「除夜の鐘」について、『日本仏教がわかる本』(P153)には、

「人間の心にある百八の煩悩の迷いを醒まし、一切の衆生に温かい仏心を呼び起こすものとされています。過ぎた一年の煩悩を消し、来たる一年の煩悩の迷いを脱することを願って鐘が鳴らされているのであります」

と書いてありました。

 

また、「煩悩」について、『インド仏教史 上巻』(P254)には、

(「煩悩」の解釈として私が好んでいる箇所を太字にしております)

煩悩とはクレーシャの訳語であるが、有部に属する『入阿毘達磨論』巻上(大正二八、九八四上)には、「心身を煩乱逼悩して相続するが故に煩悩と名づく。これ即ち随眠なり」と述べ、心身を騒乱して寂静をさまたげるものの意味に解釈している。」

と書いてありました。

 

「煩悩とは……心身を騒乱して寂静をさまたげるもの」

 

(「寂静(じゃくじょう)」の意味は次の通りです。

①ひっそりと静かなこと。

②〔仏〕煩悩を離れ、心の平静なこと。涅槃。

広辞苑』より)

 

百八つあると言われている煩悩ですが、

実は、煩悩の数や数え方にはさまざまな説があります。

ただ、仏教では特に、人の根源に非常に強くある煩悩として、

「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)」の三つ挙げ、

これを「三毒(さんどく)」と呼んでいます。

 

また、「貪欲・瞋恚・愚痴」の頭文字をとって、

「貪瞋痴(とんじんち)」とも呼ばれています。

(略したときには、「瞋恚」の「瞋」は「じん」と読まれています。)

 

三つのそれぞれの意味については、

ブッダの教えがわかる本』(P119)に、次のように書かれています。

「貪欲とは、むさぼりの心です。

 瞋恚とは、怒りの心です。

 愚痴とは、人間の愚かさをさしています。」

 

もう少し申し添えれば、

「貪欲」とは、貪る(むさぼる)ようにほしがって執着すること、

「瞋恚」とは、思い通りにならないことに憤り、嫌って拒絶すること、

「愚痴」とは、真実に暗い・無知であること、です。

 

また、仏教では、

「煩悩」は、「真理・真実を知らないこと=無知」から生ずるもの

と考えていますので、(上に挙げた三つ目の)「愚痴」へ対処が、

「むさぼりの心」や「怒りの心」はもちろん、

あらゆる煩悩から離れていける可能性を秘めている、

と言えると思います。

 

そして実は、書籍の中で、

「愚痴」は、「愚」という文字でもよく見かけます。

「とん・じん・ち」の場合で言えば、

「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」と、

「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という二つを見かけます。

 

これは、「痴」は昔、「癡」という文字を用いていたからのようです。

 

私はこの二つの表記があることを知った時、思ったことがありました。

 

それは、(あくまでの私の考えではありますが、)

病垂(やまいだれ)が用いられている「痴・癡」には、

「知っている・知らない」「疑う・疑わない」を

うまくできない病(上手に扱えない病)

という意味があるのではないか、という考えです。

 

たとえば人は、時には、いわゆる”知ったか振り”をしたり、

逆に、謙遜をし過ぎて「私なんか……」と言って、

知っていることを、自信を持って教えることができなかったり、

また、親切に裏があるのではないかと疑ってみたり、

逆に、人のつく嘘に何となく気づいていながら疑うことをせず、

むしろ積極的に”信じている振り”をしてみたり、

さらに、“信じている振り”をした自分を省みずに、

訪れた結果に「裏切られた」と言ってみたり……

ということをしてしまうことがあるように思います。

 

もちろん、疑っているけれども疑っていない振りをしたほうが、

ここはうまくいく、ということもあると思います。

また、世の中には、全く見抜くことのできない嘘もあると思います。

 

ただ、「疑っている」ならば「疑っている」という自分の勘や、

また、「怒っている」ならば「怒っている」という自分の気持ちなど、

そういう自分がせっかく感じ取った勘や気持ちを“無視せず”、

そのうえで“適した行動をとる”ように心掛けなければ、

人は、「知っている・知らない」「疑う・疑わない」を

うまくできない病(上手に扱えない病)に操られてしまうのではないか

と私は考えています。

 

「自分の気持ちに素直になること」なくして、

「自分の気持ちの主(ぬし)となり、

 自分の気持ちの扱い方がうまくなる」ということは、

ないように思います。

 

「愚痴・愚癡」の意味である「真実に暗い」を、

「真実に明るい」というふうになるにはどうしたらいいかは、

もちろんながら、大変難しい問いですが、

ただ、もし、「知っている・知らない」「疑う・疑わない」を

うまくできない病(上手に扱えない病)操られないよう心掛け、

「知っているものは知っている」「疑うべきは疑う」というように、

「自分の本当の感覚を信頼する」ようにしていけば、

「真実に暗い」ことから、少し離れていけるのではないか、

と私は考えています。

 

時に、判断を誤って失敗することもあるかもしれませんが、

それはやはり、「真実に暗い」ことから離れていくための“学び”

なのだと思います。

 

(因みに「愚痴・愚癡」とは別に「疑(ぎ)」という煩悩もあります。

こちらの「疑」は、「真実・真理を信じることができない」

という意味のものであることをここに申し添えておきたいと思います)

 

(また、仏教には、真理を知らないことから脱するための、

四諦八正道(したいはっしょうどう)」という教えがあります。

私が細々とブログを続けていく中で、いつかご紹介させていただけたら

と思っております)

 

私は毎年、除夜の鐘の音が聞こえてくると、

心が落ち着いてくるように感じています。

「心に静けさが戻り、かつ、力が湧いてくる」気がしております。

 

「新年はこれをしよう!」という「熱い心」も「エネルギー」も、

きっと「静かな心」から生まれてくるのだろう、と思っております。

 

そして、本物の情熱は成し遂げるまでの間、また、成し遂げてもなお、

ずっと、心のどこかに「静かな心」を伴っているものなのかもしれない

と思っています。

 

(因みに私は、「熱い心・熱意」は、「騒がしい心」とは違うもの、

と思っておりますことを、念のため申し添えさせていただきます。)

 

記事の始めのほうで、

「煩悩とは……心身を騒乱して寂静をさまたげるもの」

とお伝えしましたが、煩悩に操られやすい人間が、

人生で、また、人生の中の選択の場面で大事にしたほうがいい視点は、

「自分の心(自分の世界)が、寂静につながるのかどうか」

だと私は思います。

 

そしてもし、自分に素直になれないときや、

心に引っかかるものがあり、不本意ながら心静かでないときには、

心の中で、意図的に、自ら「除夜の鐘」を鳴らして、

心に静けさを取り戻し、力が湧いてくるのを待ってみるのもいい、

と思っています。

 

私は、日々の皆様の心が明るくあることを願っております。

当記事もその願いを込めて書かせていただきました。

 

自ら、心の中に除夜の鐘を鳴らしながら、

また、世の中に除夜の鐘が鳴り響き渡り、

どなたさまにも、

心静かで力が湧いてくる一年が訪れますことを

心より願っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『日本仏教がわかる本』服部祖承 大法輪閣

 日本仏教がわかる本―仏教を学ぶ

『インド仏教史 上巻』平川彰 春秋社

 インド仏教史 上巻

ブッダの教えがわかる本』服部祖承 大法輪閣

 ブッダの教えがわかる本―仏教を学ぶ

 

※次回の記事更新は来年(2020年)「3月」を予定しております。

 更新にお気づきいただけましたら、

 そして、皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 幸いに存じます。