今日と明日は、「信じること」について述べてみたいと思っています。
私は、浄土真宗の開祖「親鸞聖人」が、
浄土宗の開祖「法然上人」に対して抱いた思いを知って、
「人が、人を信じる」というのは、このことだと確信しました。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
親鸞聖人は、どのような教えを聞いても、どのような修行をしても、
なかなか煩悩を断ち切ることができず、
長く苦しんでいらっしゃった方です。
それが、法然上人との出会いによって、
こういう煩悩まみれの自分でも救われることを知り、
法然上人に師事したという経緯があります。
(法然上人の教えについては、またの機会に
触れされていただくこともあるかもしれませんが、
今回は、私が「信じる」とはこういうことだと思ったところを
述べさせていただきます。)
私は、大学の授業で学んだことがありますが、
この本や、この本を解説する本はたくさんの出版社から出ており、
私も何冊か読みました。
そのうちの一冊である、『親鸞! 感動の人生学』(P49)から、
『歎異抄』第二条の訳文を抜粋して引用させていただきますと、
「親鸞は、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、……念仏は本当に浄土に生まれる救いの法なのか、それとも地獄に堕ちる業なのか、まったく私の知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、阿弥陀仏の世界に生き、念仏を称えることによって地獄に堕ちたとしても、私にはなんの後悔もありません」
とあります。
この「だまされて、地獄に堕ちたとしても、なんの後悔もありません」
というところに、
私は、「信じる」とはこのことだと、思ったのです。
親鸞聖人は、法然上人だけでなく、もちろん、阿弥陀仏様のことも
信じていらっしゃったことと思いますが、
私は、疑わず、後悔することもないという心情を
「人が人に」抱くというのは、
大変難しいことだろうと思います。
大変難しいことだからこそ、そういうことがあるというのは
素晴らしいことだと思います。
だまされているのかもしれないと、疑わない。
裏切られるかもしれないと、疑わない。
相手が、がらりと態度を変えてくるかもしれないと、疑わない。
たとえ、だまされても、後悔しない。
たとえ、裏切られても、後悔しない。
たとえ、相手が、がらりと態度を変えてきても、後悔しない。
このように信じることができる人と出会えるとすれば、
最高の出会いになると思います。
「信じる」とは、
「この人にだまされても、後悔はしない」という思いのことだ
と私は思っています。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
明日も、「信じること」について述べさせていただきます。
ご一読いただけたら幸いです。
※2015年6月11日に、『「信じること」について②。』の
ブログ記事へのリンクを下記に貼らせていただきました。
合わせてお読みいただけたら幸いです。
引用・参考文献