私が、「自殺の阻止」を最大の目的として書いた、
『人生に関する私の見解』という本に、
私の、「私の担当者」という考え方について、
述べている箇所(P88・89)があります。
その箇所をここに掲載させていただきます。
「私の担当者」
気がついたときには、すでに私は生まれていた。すでに私は、冒頭に「私は……」と言って誰かと会話をしていた。そして、その場の状況を考えて、発言を慎んだり、勇気を出して発言したりする私がいた。つまり、私に「最善の行動をとらせようとする私」が、気がついたときには、すでにいたのである。
それに気がついてから、私は、「私の担当者」という考え方をするようになった。私の言う「担当者」というのは、その人が何をどう思ったかを受け止め、かつ、その人に最善の行動をとらせようとする「もう一人の自分」のことである。
この「担当者」を意識的に呼び出すと、いくらか冷静な自分を確保できるのではないかと思う。例えば、「私はこういう行動をする」というのを、「私に、こういう行動をさせる」と考えられるようになり、少しは客観的に自分を見ることができるようになると思うのだが、どうだろうか。
「私」と「私の担当者」は、二人三脚で人生を歩むが、「担当者」にできることは、助言を与えるところまでである。例えば、人には「いけないとわかっていながら、してしまった」ということがある。これは、「担当者」が「してはいけない」という助言を与えたにもかかわらず、「私」は「してしまった」のであり、最終的にどのような行動をとるか決めるのは、「私」ということになる。
この世に生まれてきた以上、この世を生きていく人に、最善の行動をとらせようとする「担当者」がいることは、幸いなことであると思う。担当者は自分の強い味方である。あなたにも、あなたの担当者がいる。人それぞれに、人それぞれの担当者がいる。皆に強い味方がいる。
おそらく、どなたにも、
私の言う「担当者」に心当たりがあるのではないかと思うのですが、
いかがでしょうか。
例えば、「死にたい」と思ったことがある方は、
「それは、いけない」という、
「もう一人の自分」の声を聞いたことがあるのではないでしょうか。
「死にたくなった」とか、「いじめにあっている」とか、
「自分の手に負えないことがあって、困っている」とか、
そういうときは、誰かに相談したほうがいいと思います。
しかし、どうしても相談できないこともあると思います。
勇気がなくて言えないとか、恥ずかしくて言えないとか。
誰かの名誉のために言えないとか。
また、「心配かけたくない」という理由で、
親に、いじめにあっていると言えない、
ということもあると思います。
それでも、本来は、「相談」という意味だけでなく、
「報告」という意味も含めて、親には伝えるべきだと思います。
ただ、どうしても言えない、
相談に乗ってくれる当てが全然ない、ということがあるから、
「自殺」にまで及んでしまうことがあるのだと思います。
誰にも言えない。相談に乗ってくれる当てが全然ない。
そのようなとき、
「自分の担当者=もう一人の自分」の声に、
耳を傾けてみてほしいのです。
「自分の担当者」は、
呼び出せば、いつもそこにいるほど、自分に付きっ切りです。
何しろ、自分に専属の担当者ですから。
また、自分に「最善の行動」をとらせたいため、「非常に冷静」です。
非常に頼もしいです。
もし、「死にたい」と思ったら、きいてみてください。
「それは、いけない」と、きっと言っています。
「もう、学校には行きたくない」
「もう、会社には行きたくない」
と思ったら、きいてみてください。
「それで、いいよ」
「それが、いいよ」
と、言っているかもしれません。
過去と現在と未来を吟味して、
きっと、「最善のこと」を言ってくれています。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
※2015年7月30日に「拙著『人生に関する私の見解』の紹介。」
というブログ記事へのリンクを下記に貼らせていただきました。
お読みいただけたら幸いです。
引用文献
『人生に関する私の見解』森麻理子 日本文学館