世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「許しの対象」について。

一般的に、「許し」は、「よいものとして、すすめられている」

というように、私は感じています。

 

しかし、許し難いことが起こったならば、

「許せない」と思って当然、と私は思っています。

 

頑なに、「許さない」とすることで、

損をすることもあるのかもしれませんが、

「生涯、あのことは、許せなかった」ということがあったとしても、

「意地を張った、つまらないこと」と言えないこともある、

と私は思っています。

 

ただ、「許し」を、本当にしたときは、

心が軽くなり、安らぐのだろうとも思っています。

 

相当な「苦痛」を伴うとしても、

「苦痛」の向こう側の、「安らぎ」に向かってがんばることには、

一つの価値があると思います。

 

また、「安らぎ」を手に入れられるならば、

無理のない、「本物」であってほしいです。

 

私は、誰かを許そうというとき、

「許しに値するもの」をきちんと見届けてからにしたい、

と思っています。

 

また、取り返しのつかないことをした人に対しては、

何をしても、取り返せないわけですから、

「後悔」してもらうしかない、と思っています。

(但し、「後悔」してもらうために、報復を企ててはいけない

と思っています。)

 

つまり、私が誰かを許すときには、基本的に、その人が

「後悔していること」が必要です。

その「後悔していること」が、私にとって、

「許しに値するもの」になり得ます。

 

そして、「許す」とは言っても、

「何を許すのか」について、思っていることがあります。

 

私の思っている「許しの対象」は、その人が、

「そういうことをするのは、やむを得なかった」

「そういう人であったのは、やむを得なかった」

という「境遇」です。

 

もし、わが子が無差別に殺害されたとしたら、

その犯人の「行為」は、「永遠に許されてはならない」

と私は考えます。

 

犯人が「人を無差別に殺害するような人物になってしまった」のは、

まず、思いつくのは、「生い立ち」です。

そして、人生の途中で、誰と出会い、何が起きたか、ということも

関係があるかもしれません。

他にも、理由は、いろいろと考えられると思います。

 

どのようなところに生まれ、どのような家で暮らし、

どのような環境に置かれたのか。

どのように育てられ、どのように育てられなかったのか。

どのような人に出会い、どのような人に出会えなかったのか。

どのようなことを学び、どのようなことを学べなかったのか。

どのようなことを考え、どのようなことを考えられなかったのか。

 

何があったかは、その犯罪「行為」が許される理由にはなり得ない、

と私は思っていますが、

その犯罪行為をした人物の

その人が、「そういう人になるのはやむを得なかった」

という「境遇」については、場合によっては、

「許しの対象」となる、と私は思っているのです。

 

私の考えでは、

「許しの対象」は、「行為」ではなく、「境遇」なのです。

 

また、私が「許す」ときは、

その人に「後悔の念」があることが大前提ですから、

その「念」をもって、その「人」をも、許しの対象となり得ます。

 

世の中には、あることで、ある人を、ある行為を、

「許したい気もするけれど、やはり、許せない」とか、

「絶対に、許せない」など、

「許せない」ことで、

苦しんでいる方々がいらっしゃるのではないかと思います。

 

これ以上苦しむことのない「許し」を迎えられますよう、

私は、心から望んでおります。

 

 

お読みくださいまして、ありがとうございました。