「修証義」は、曹洞宗で親しまれているお経だそうです。
『お経がわかる本』によれば、
「修は修行、証は悟り、義は意義をあらわす」のだそうです。
また、曹洞宗の在家信者と僧侶のための、
「教化(きょうか)の標準書」にあたるそうで、
正しくは、
『曹洞教会修証義(そうとうきょうかいしゅしょうぎ)』
というそうです。
私は、この「修証義」の最終章(第五章)に出てくる、
ある言葉を気に入っておりまして、
今日は、その箇所をご紹介させていただきたいと思います。
『曹洞宗のお経』(P118.119)より。
[現代語意訳]
月日・時間の経過は矢よりも速く、人の命は露よりももろいものです。どのようなより善き手立てがあったとしても過ぎてしまった一日を取り返すことができましょうか。無益に一〇〇歳ほども長生きしたとしても、それは恨みや後悔の多い月日です。悲しむべき命だったというべきです。たとえ一〇〇歳の月日は、色欲、声欲など外界の刺激(六境)の奴隷となってふりまわされていたとしても、そのなかで一日だけでも真実の生き方をしていたなら、一生涯一〇〇歳の月日も意義ある人生となるばかりか、今後一〇〇年の次の人生も喜びに救われていくのです。そういう真実の一日の命は、まことに尊い命です。尊重すべき肉体なのです。……
特に、私が気に入っているのは、
(私の言い方に、少し変えてしまいますが、)
「つまらない人生を100歳生きてきてしまったとしても、
100歳生きてきた中の、たった一日、
真実の生き方(誠実な生き方)をしていれば、
その100歳の人生に意義が出てくる」
というところです。
しかも、「次の人生100年まで救われる」というのですから、
とてもありがたいお話です。
たった一日とはいえ、
「正真正銘の、真実の生き方(誠実な生き方)をする」
ということは、けっこう大変なことなのかもしれません。
しかし、
これまでの人生で「失敗した」と思うことがあったとしても、
これからの人生で「十分、挽回できる」わけですよね。
これからの新たな失敗も、やはり、また、挽回できる、
ということですよね。
人生は、毎日、挽回できる日がめぐってきている、
ということだと、私は思います。
念のため、該当する箇所の原文も載せておきます。
[原文]
光陰は矢よりも迅やか(すみやか)なり、身命(しんめい)は露よりも脆し、何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び(ふたたび)還し得たる、徒に(いたずらに)百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、設い(たとい)百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも、其中(そのなか)一日の行持(ぎょうじ)を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのにあらず、百歳の侘生(たしょう)をも度取(どしゅ)すべきなり、此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり……
本日も、お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用・参考文献
わが家の宗教を知るシリーズ
・『お経がわかる本』藤井正雄(総監修) 双葉社