人は「責任」を気にしていると思います。
時々、「私の責任じゃないからね」と念を押す人がいますが、
その人も、あとで責任追及をされないようにするために、
そう言っているのではないかと思いますので、
やはり、「責任」というものを気にしているのだと思います。
法的には、20歳から「成人」と呼ばれますが、
(父母の同意があれば)男性は18歳、女性は16歳で、
「婚姻」が可能になったり、
15歳になると、有効な「遺言」ができるそうですから、
「責任」を伴うことは、未成年でも発生するということだと思います。
但し、今回、私が述べようと思うのは、法的な責任ではなく、
言わば、「人としての責任」について、です。
私は、「人としての責任」は、いつから発生するのかを、
「何歳から」というように区切ることはできないと思っています。
どのような環境で育ち、誰と出会ったかによって、
人の成長は、方面も長さも深さも、いろいろになると思います。
よく、問題を起こす子どもがいると「親のしつけ」に目がいき、
問題を起こす大人がいると「生い立ち」に目がいくと思います。
しかし、親のしつけがどうであったか、生い立ちがどうであったか、
にかかわらず、その人に責任が生じることもある、
と私は思っています。
例えば、子どもがお店から何かを持ってきてしまった場合、
「窃盗の罪」になるわけですが、
これを、親が「お店の物を、勝手に持ってきてはいけない」
と教えてあるのはいいのですが、
もし、教えていなかったところで、その子どもが、
「お店の物を、勝手に持ってきてはいけないことを知っている」
ならば、これはもう、親の責任ではなく、子どもの責任である、
と私は考えます。
どういうことをしてもよくて、どういうことをしてはならないか、
教えてもらったかどうかに関係なく、
「知っていた」ならば、「その人の責任になる」
と私は思っているのです。
ですので、「知った時」から、「人としての責任」は「発生」している
と私は考えます。
ここで難しいのは、「知っているべきだった」という場合ですが、
私は、常識として知っているべきだった、というのではなく、
「十分情報が入ってきているにもかかわらず、
自分が耳を傾けなかったために、知らなかった」
という場合には、
はっきりと「知っているべきだった」に該当し、
「責任が発生する」と考えます。
また、先ほどの例では、本来、親は、
「お店の物を、勝手に持ってきてはいけない」と、
口頭でも、態度でも、背中でもいいと思いますが、
何らかの方法で、子どもに教えてあるべきだと思いますので、
もし、教えていないなら、教えるまで、親の責任は続いている、
と私は思っています。
「責任」は、イメージとしては重みがある言葉ですが、
基本的には、
どういうことをしてもよくて、どういうことをしてはならないかを
「知っているなら、知っている通りにする」だけで、
「責任を負った」になる、と私は思っていますので、
人が、(けっこう気にしていると思われる、その)責任を、
きちんと負う、と決めて、
気持ちのほうは、軽快になるといいな、と私は思っています。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。