世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

私が「懺悔文(さんげもん)」を唱える理由。

私が日々唱えているお経の一つに、「懺悔文(さんげもん)」が

あります。

(因みに、「懺悔」は、キリスト教では「ざんげ」と読みますが、

仏教では「さんげ」と読みますので、念のため。)

 

「懺悔文」は、

「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

 皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)

 従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)

 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」

というものです。

 

その意訳は、『お経の意味がわかる本』によりますと(P58)、

 私が昔から造ったさまざまな悪い行いは、すべて始まりもない遠い過去からの貪り(むさぼり)や瞋り(いかり)、癡さ(おろかさ)によって生じたものです。そのため身体と言葉と心から生ずるすべての行いを、私は今、懺悔します

となっています。

 

また、同じく『お経の意味がわかる本』には(P59)、

 仏教では、私たちが悪業を重ねるのは、貪・瞋・癡(むさぼり・いかり・おろかさ)の三毒が原因で、それらは身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三業によってなされるのだと説きます。ですから、私たちが、それらの悪業をしていないかどうか、常に反省し、改めるべきものは改め、真人間になれるように仏の前で懺悔するのです。

と、懺悔する理由について書いてありました。

 

私も、同じような趣旨で、日々、「懺悔文」を唱えております。

 

しかし、仏教で、悪業(悪い行い)は、

身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三業によってなされる

と説かれていても、

私は、身・口・意が、悪いところばかりとは思っていません。

 

例えば、口(ことば)は、

誰かを傷つけてしまうこともあるけれど、

誰かを癒やすこともあるからです。

 

そして、私が「懺悔文」を唱える理由には、もう二つ、意味があります。

 

一つは、自分に罪の意識がないところの「罪」を、

何とかフォローしたい、という理由です。

 

「懺悔」は、自分の罪を告白し、悔い改めることだと思いますが、

人は、自分に罪の意識がないと、なかなか懺悔を行わない、

と思います。

 

また、「自分に反省すべきところがあるのではないか」

と探ってみても、その反省すべきところを、

見落とす可能性があると思っています。

 

見落としたものを、「どうか、私に気づかせてほしい」

という願いを込めて、私は、「懺悔文」を唱えるのです。

 

そして、私が「懺悔文」を唱えるもう一つの理由は、

「謝罪と感謝」の気持ちを、そこで表したいからです。

 

私は、きつい言葉で、誰かを傷つけてしまったことがあります。

 

しかし、私の言葉に傷つけられたにもかかわらず、

耐えてくれたその人の、「耐える」という心に、

私は感謝もしています。

「耐えてくれて、ありがとう」ということです。

 

その人への「謝罪と感謝」の気持ちは、

「懺悔文」を唱えるときの、私の心にある、もう一つの思いなのです。

 

結局、私が「懺悔文」を唱える理由には、

「自分の罪を告白し、悔い改めること」

「自分に罪の意識がないところの罪を、気づかせてほしいこと」

「耐えてくれた人に謝罪と感謝をすること」

の三つがあることになります。

 

 

お読みくださいまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『お経の意味がわかる本』服部祖承 大法輪閣

 お経の意味がわかる本 (仏教を学ぶ)