私は、以前、「蛾」という文字をみて、
「蛾は、どうして、虫に我なのかな」
「蛾は、相当自分の気持ちを押し通す、我の強い生き物なのかな」
と思ったことがあります。
一応、『漢字源』で調べてはみたものの、
私の疑問に答えるようなことは書かれていませんでした。
いつのまにか、その疑問をもっていたことを忘れていたのですが、
あるとき、私にとって納得のいく「答え」が訪れました。
それは、『生命(いのち)の暗号』という本の中に書いてありました。
この本は、
「生命の精巧な設計図(ヒトの遺伝情報)」を読んでいると、
どうしても、人間を超えた存在を想定せざるを得なくなり、
その存在を「サムシング・グレート」と呼んでいる……、
という内容のことが書かれている本です。
著者である筑波大学名誉教授の「村上和雄」氏は、1983年に、
高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子解読に成功し、
世界的な業績として注目を集めたと言われています
(前掲書のプロフィールを参照)。
ところで、
10月5日に、北里大特別栄誉教授の「大村智」氏が
「ノーベル医学・生理学賞」を受賞し、
「ノーベル物理学賞」を受賞されましたね。
すばらしいですね。
会見を拝見していると、功績の他に、
お人柄のよさまで伝わってきました。
このノーベル賞。
「村上和雄」氏も、いつ受賞されてもおかしくない方、
と私は思っています。
しかし本日は、ノーベル賞やサムシング・グレートのお話ではなく
「蛾」の話です。
「蛾は、どうして、虫に我なのかな」
「蛾は、相当、我が強いのかな」
という私の疑問の答えは、
『生命(いのち)の暗号』の次の二つの文の中にありました。
(私が特に気に留めた箇所を太字にしております。)
一、P249
保護色をもったある種の蛾は、産卵を終えると自ら飛び回ってエネルギーを使い果たし、死んでしまうそうです。人間でいえば自殺のようなものですが、なぜそうするかというと、外敵に自分たちを見つける方法を学ばせる機会を少なくしているのです。また、毒をもったある種の蛾の場合は、産卵を終えるとじっとして、わざと外敵に食べられる機会を増やす。わざと食べられて「まずい」ことを覚えさせることで、若い蛾が襲われる機会を減らす努力をしているといいます。
蛾の親たちはまだ自分が生きられるのに、自分の生命を「つつしんで」いる。彼らはほかに方法がないからそうしているので、人間が同じまねをする必要はありませんが、そこに現われた自然の法則に忠実な生き方には、目を向ける必要があるように思います・・・・・
二、P247・248
繁殖しようとする意志と死のうとする意志の矛盾はいったい何かということです。これは遺伝子につつしみがあるからと考えられます。つまり、死というものがなくて繁殖ばかりを続けていたら、増えすぎて困る。生きものにはエサが必要ですが、繁殖しすぎればエサの不足が心配になる。かぎられた環境下ではスペースの問題も出てきます。
私たち人間の遺伝子にも、そういう適正規模を保つというプログラムがある。死というものも、したがって必然としてとらえる必要があるのです。生きているものは死ななければいけないのです。つまり遺伝子は利己的なものと同時に利他的なものもある。そうやって地球全体のバランスをとってきたのです。
この「蛾」の世界ではたらいている「生命の法則」に、
「自利利他」を私は強く感じました。
(『広辞苑』によれば、自利利他(じりりた)」とは、 「自ら仏道を修行して悟りを得るとともに、他人に仏法の利益を得させること。」 と書いてありましたが、 この記事では、「利己的なもの」と「利他的なもの」を「自利利他」というとお考えいただければと存じます。) (※黒字の部分は、H27.10.9に加筆させていただいた文章です。) |
「虫に我」と書いて、「蛾」。
「蛾」は、「虫に我」と書いて然るべき。
「蛾は、相当、我が強い」というのが、私の得た「答え」です。
その「我」の奥に、「我々」が潜んでいるからです。
著者・村上和雄氏が「彼らはほかに方法がないからそうしているので、
人間が同じまねをする必要はありません」と書かれているように、
人間の場合は、蛾とは違った形で生命をつつしむのだろうと思います。
例えば、それは「互いを尊重する」とか、「互いを労わる」とか……
ということではないかと思います。
自他の区別があるようで、ないような感じの……
「我」の奥に、「我々」が潜んでいるからこその行いを、
「自利利他」というのだろうと私は思います。
「生命の法則」は、
「人」であろうと、「蛾」であろうと、他の生き物であろうと、
それぞれ、やり方・あり方が違うだけで、
「自利利他」がある点について、同じなのだろうと思います。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用・参考文献