私は、以前、『私は「生きる」と決めて生きています。』という
ブログを書かせていただきました。
そこでは、
「寿命が尽きるまで「生きる決心」をして、生きています。」
ということを述べました。
その考えに、やはり、今も変わりはありません。
また、このほかに、以前から持ち続けていて変わらない考えが
あります。それは、
「生まれてきた」ということを始点にして考えたとき、
「人は、いつか死ぬ」という終点があることを当然と思うならば、
始点と終点の間の「生きる」こともまた当然である、
という考え方です。
(「①生まれた」と「③死ぬ」との間にある「②生きる」も
当然なことである、と思っているわけです。)
そして、さらに「権利」「義務」という言葉を使って、
考えてみたことがあります。
但し、ここでいう、「権利」「義務」は、
自分の好きなようにできることを「権利」、
自分の好きなようにできないことを「義務」、
と表現しているだけで、
法律上の「権利」「義務」を指しているのではありません。
私の考えでは、人は「当然、生きる」のですが、
「いつまで生きるか」については、
私の好きなようにできない側面があるため、
これでは、私に「権利」があるとはいえない、と思いました。
そして、人は、「当然、死ぬ」のですが、
「いつ死ぬか」については、
自殺という方法で、私の好きなようにできる側面があるから、
まるで、私に「権利」があるかのようだ、と思いました。
自分の命とはいえ、自分の自由にしていいわけではない、
という道徳はあると思いますが、
実際に、自分のコントロール下にないのは、
「いつまで生きるか」のほうだけで、
「いつ死ぬか」のほうは、コントロール上にある、
と思えてしまうわけです。
しかし、
「生きる」は「(自分の好きにはできない)義務」であり、
「死ぬ」は「(自分の好きにできる)権利」と考えてみると、
不都合なことがありました。
仮に、「死ぬ」が「権利」だと思って自殺をすれば、
「生きる」の「義務違反」になる、という不都合です。
但し、「生きる」の「義務違反」をしないために、
「死ぬ」という「権利」を行使しなくても、「権利違反」という問題は
(行使する・しないを自分の好きにできるはずなので)生じません。
ですので、
結局、「死ぬ権利」というのは「ない」のと同じことだと思います。
むしろ、「人は、いつか死ぬ」のだから、
「死ぬこと」もやはり「義務」であり、
ただ、それは、
自然にやってくる寿命が、尽きる時に果たす「義務」
(=自然に果たすことになる義務)である、と私は思います。
このように考えると、「義務違反」における不都合は生じない、
と私は思いました。
こうなってくると、「義務」ばかりでバランスが悪い、
という感じがしてきますが、
私は、「自分の人生をどのように生きるか」については、
「権利」であると思っていて、この点でバランスを逸してはいない
と思っています。
但し、「自分の人生をどのように生きるか」の「権利」は、
「かなり自由」にしなければ、「義務」とバランスが保てない、
と思います。
からだのバランスがよければ歩きやすいように、
心のバランスがよければ、人生は歩きやすくなるのではないか、
と思いますので、
「人に危害を及ぼさない」という前提はありますが、
人は、かなり自由に生きてバランスのよい人生を送るのがよい、
と私は思います。
また、「人に危害を及ぼさない」ことについては、
それがむしろバランスのよい人生になるとも思います。
以上のように考えてきて、
私は、「生きる」「死ぬ」の関係の落ち着くところは、
人生を、かなり楽しもうとして、
かなり好きなようにして生きようとするところにあるのでないか、
と思っています。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。