世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「人の器の中」について。

「心の大きい人」や「スケールの大きい人」などのことを

よく、「器の大きい人」と表現すると思います。

 

「器」を、『広辞苑』で調べると、

「①物を入れおさめるもの。……

 ②事を担当するに足る才能。器量。また、人物の大きさ。」

と書いてありました。

 

私は、この、人の「器」について、思っていることがあります。

 

私は20歳代の頃、レストランで、

ウェイトレスのアルバイトをしたことがあります。

 

お客様がお席に座られたところへ、

(私は右利きなので)左の手のひらにトレーを載せ、

そのトレーの上に、水の入ったコップを持っていきました。

 

ウェイトレスを初めて間もない私には、

トレーの上に、水の入ったコップ「2個」が、

一番安定して運べる気がしていました。

 

ですので、水の入ったコップ「3個」を運ぶことが、

初めての壁でした。

 

そして、お客様がいないときに、

「水の入っていない」コップをトレーに載せて、

訓練しようとしたときに、気がついたことがありました。

 

「水の入っている」コップよりも、

「水の入っていない」コップをトレーに載せるほうが

かえって「不安定」になる、ということに気がついたのです。

 

考えてみると当たり前のような気がしますが、

つまり、「ある程度、重みがあるほうが安定する」

ということに気がついたのです。

 

そして、何事も場数!ということで、

「水の入っている」コップを5個も6個も10個も……

大丈夫になるときがやってきました。

 

これもまた、とても当たり前のことなのですが、

「経験数が増えるほど、持てるコップの数が増えいった」

わけです。

 

そして、私は考え始めたのです……

もし、「コップ」が、人の「器」だとしたら、

コップの中の「水」が、人の「責任」だとしたら……

 

人は、自分の器(身の丈)にあった「責任」を持ったとき、

一番「安定している」のではないか。

 

人は、経験数が増えると「軽いもの」も「重いもの」も

「うまく担える」ようになるのではないか。

 

新人ウェイトレスの私が、

「水の入っている」コップよりも、

「水の入っていない」コップをトレーに載せるほうが

かえって「不安定」になったのは、

そういうことだったのではないか……。

 

20歳代の私が思ったことは、やはり当たり前ですが、

「器の大きい人」とは、「責任を果たせる幅が広い人」

ということでした。

 

この考えは、ずっと変わらず、今でも変わりませんが、

最近になって、「人の器」について考えることは、

これで終わりではなかったことに気がつきました。

 

『ドイツ人禅僧の心に響く仏教の金言100』

という本の中に、

「ただ、透き通った水のように純粋であれ」

と題したページ(P94,95)があり、

そこに、禅僧の「一休さん」がおっしゃった言葉が載っていました。

そこで、私は、「人の器」について考えることに、

続きがあることに気がついたのです。

 

一休さんがおっしゃった言葉は、

「たとえば大空の月、諸々の水に宿りたまうといえども、濁れる水には宿りたまわず」

というものです。

 

この言葉が意味することは、

「小さな池の中にも、月はちゃんと映っている……。コップ一杯の水にも、月は映る。そして一滴の露の中にも……大きな月がすっぽり宿っている……」

「水が月を映すための条件は、大きさの大小ではない。条件はたった一つ、濁っていないことだ。水が透明でさえあれば、どんなに大きな月でも映すことができる。……ただ純粋になるだけで十分なのだ」

ということでした。

 

私は、人の器は「身の丈に合った責任を持つのがいい」

そして、「小さいよりは大きいほうがいい」

けれども、その「器の中」が、

「濁っていたら、大きくても意味がない」

「濁っていたら、正しく責任を負うことができない」

とも思いました。

 

濁った水が入ったコップを、

お客様にお持ちするわけには参りません。

 

現在の私には、「人の器の中」は、

「濁っていないことが何より大事である」

という考えが加わりました。

 

 

本日も、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『ドイツ人禅僧の心に響く仏教の金言100』ネルケ無方 宝島社

 ドイツ人禅僧の心に響く仏教の金言100