世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「如来蔵思想(にょらいぞうしそう)」について。

本日は、仏教にある思想の一つ、「如来蔵思想」について、

私の考えを述べさせていただこうと思います。

 

(因みに、「如来蔵思想は仏教ではない」という説を耳にすることもありますが、私は「仏教の一思想」と捉えております。)

 

以前、私が通信制の大学で学んでいた際に使用した

『宗教学概論』というテキストに、

如来蔵思想」の説明がありました(P152)。

 「如来蔵」の「如来」とは仏のことである。「蔵」とは子宮のことである。つまり、「如来蔵」とは仏を生み出す胎という意味である。仏を生み出す胎、すなわち仏となる可能性が人々にあること、これが如来蔵思想である。

 

如来=仏」は、

清らかで、迷いのない、けがれに染まることもない、

さとりを開き、そして、人をさとりに導く、というお方です。

 

この「仏」になる可能性(=仏となる性質=仏性)が、

「すべての人に宿っている」ということを、

如来蔵思想」は唱えているわけです。

 

因みに、『涅槃経』に、

「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」

という言葉が出てきます。

これは、「一切の衆生に、悉く(ことごとく)仏性が有る」

ということですので、

如来蔵思想」と似ていると思います。

 

ただ、「一切衆生悉有仏性」の場合は、

一切の衆生に仏性は有るのだから、

「あとは気づくだけですよ」というようなソフトなニュアンスがあり、

如来蔵思想」のほうは、

「自分(の蔵)に有る」はずの「仏性を見つけて、発揮していく」こと

を積極的にすすめているようなニュアンスがあります。

 

ですので、つまり、「見えなくなっている仏性」を、

「見つけて、発揮していく」ために、

「修行すること」を、「如来蔵思想」は促しているのです。

 

そして、なぜ、「仏性」が見えなくなっているのかと言えば、

人は、「怒ったり、妬んだり、疑ったり……」といった「煩悩」に

「仏性」が覆われてしまっているからだ、と言われています。

 

改めて申し上げれば、

如来蔵思想」は、

人には、「清らかで、迷いのない、けがれに染まることもない、

さとりを開き、そして、人をさとりに導く」という「仏」の性質が

有るにもかかわらず、それが、

「怒ったり、妬んだり、疑ったり……」といった「煩悩」に

覆われてしまっているために、「見えなくなっている」ので、

この「煩悩」を「削ぎ落とす」ことを促しているのです。

 

そして、人が、

「煩悩」を「削ぎ落とす」ことを考え出し、試みようとするのは、

「仏性」が「自分の蔵」に宿っているからこそなのだ、

と考えることもできると私は思っています。

 

実は、「如来蔵思想」は、

如来蔵経』というお経の中に見られる思想なのですが、

このお経の中に、この思想を説くための比喩が9つ記されています。

そのうちの1つ「皮穀に包まれた穀物」という比喩を、

ご紹介させていただきます(『大乗仏教入門』P101より)。

 穀物というものは私たちの大切な食物ですが、ふつう外皮におおわれていて、それを取り除いてこそ初めて食用に供せます。ちょうどそのように、如来は私たちの煩悩という皮穀を取り除いて、なかにある如来の本質を浄め、皮穀から取り出して用に立つようにしてくれます。

 

如来蔵思想」とは、以上のようなものなのですが、

この思想が説く、

「仏性が、すべての人に宿っている」というのは、

私は「本当だ!」と思っています。

 

その「本当だ!」は、

(日常生活の中の)お洗濯をしている時に、思ったことでした。

 

私たちが、今日一日中着ていたお洋服には、

食べ物をこぼしたり、汗をかいたり、ほこりが飛んで来たりと、

いろいろな汚れが付着していると思います。

 

私たちは、このお洋服を洗ってきれいにしようとすると思います。

落ちないところは、つまみ洗いやつけ置き洗いをすると思います。

クリーニングに出す方もいらっしゃると思います。

 

そして、お洋服は「きれい」になります。

 

この、「お洋服を洗えば、きれいになる」

ということがおわかりになる方は、

「仏性がある」、と私は思うのです。

 

「仏性」があるからこそ、

「きれい」とはどういう状態なのかがわかる、

と思うからです。

 

世の中のほとんどの方が、

「お洋服を洗えば、きれいになる」ことを

ご存知ではないでしょうか?

 

ですので、

「仏性が、すべての人に宿っている」というのは、

「本当だ!」と私は思うのです。

 

そして、「お洋服」を「洗う作業」が、

如来蔵思想」が人に促している「修行」のように思えてきました。

 

「お洋服を洗う」ように、「心を洗う」ことが「修行」。

 

「これで、心を洗えるのではないか」

「これならできるのではないか」

と私が思いつくことをいくつか挙げてみたいと思います。

・きれいな景色を眺める

・落ち着く場所に居る・出かける

・好きな音楽を聴く

・好きな人と会う

・身に染みる言葉を仕入れる

・積極的に笑う

・つらいことに泣く

・汗をかいて働く

・深呼吸する

 

また、

・人と自分の気持ちを考えてみる

・人と自分のために何かしてみる

・いつもならしてしまうことを、慎んでみる

・何かにチャレンジできないか、考えてみる

なども、心が洗われていく気がいたします。

 

まず「心を洗うこと」、

そして「仏性を見つけること」は、

日常生活を送る中で、

ときにはどこかへ出かけてみる中で、

けっこうできることではないか、と私は思っております。

 

 

本日も、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

・『宗教学概論』杉木恒彦 武蔵野大学

・『大乗仏教入門』竹村牧男 佼成出版社

  大乗仏教入門

・『仏教思想を読む―仏教の基本を知るために―』大法輪閣編集部

  仏教思想を読む―仏教の基本を知るために