世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「対機説法(たいきせっぽう)」について。

今日は、

仏教の開祖・釈尊(しゃくそん)が行ったと言われている

「対機説法(たいきせっぽう)」という説法について、

私の考えを述べてみたいと思います。

 

広辞苑』で調べると、「対機説法」とは、

「教えをきく人の能力・素質にふさわしく法を説くこと。」

と書いてありました。

 

また、仏教に出てくる「応病与薬(おうびょうよやく)」という言葉

についても、『広辞苑』で調べましたら、

「病に応じて薬を調合し患者に与えること。衆生の素質・能力に応じて仏がさまざまな教法を説くことを喩えたもの」

と書いてありました。

 

つまり、「対機説法」と「応病与薬」は、

意味するところは「同じ」であり、

性質も立場も違う衆生一人ひとりを丁寧に導くもの、

と言うことができると思います。

 

世の中には、自分とまったく同じ人はいないはずで、

何が得意で何が不得意か、何に悩むか、

性格も考え方も違って、人生は人それぞれになっているのですから、

一人ひとりに合う説法が必要だと考える「対機説法」に、

私は、とても魅力を感じています。

 

私が、これまでに何度か聞いた「対機説法」の例として、

「怠惰な人には勤勉を教えて、勤勉な人には休息を教える」

というものがあります。

 

確かに、

勤勉な人に「もっと勤勉に」とか

怠惰な人に「もっと休息を」などとは、

ふつう、あまり、言わないですよね。

 

この世に、一人として同じ人がいないので、

「対機説法」は「人の数」だけある、と言われているそうです。

 

さらに、「対機説法の数」は「お経の数」と同じ

とも言われています。

 

つまり、「対機説法の数」=「人の数」=「お経の数」

となるようです。

(仏教に非常にお経の数が多いのは、ここに理由があるようです。)

 

しかし、

自分以外の人に向けられた説法を知ることも、

大事なことだと思います。

 

ブッダが怠惰な自分には「勤勉」を教えたが、

勤勉なある人には「休息」を教えていた……

 

それを目撃したのは、目撃する必要があったからではないか、

と考えてみるのもいいと思う、ということです。

 

おそらく、どのような方であっても、

対象となる事柄によって、

「勤勉」になったり、「怠惰」になったりという、

(一人の人間に)両方があるのではないかと思います。

 

また、自分の置かれた立場・状況によって、

「積極的」になったり、「消極的」になったりという、

(一人の人間に)両方があるのではないかと思います。

 

ですので、

人に対して説かれている説法を知ることになったならば、

やはり、それは、自分にも説かれているものなのだ、

と捉えるほうがいい、と思うのです。

 

そしてその説法は、

その人が取り入れるにふさわしい量に応じて、

「直接的に」説かれたり、

「間接的に」説かれたりしているのではないか、

と私は考えています。

 

それは、同じ薬が、

ある人には1錠でよくても、別のある人には2錠必要、

ということと同じなのではないかと思います。

 

また、自分の状態や変化に応じて、

その都度その都度、

自ら、自分に必要な説法を、必要なだけ取り入れていく、

と考えるのもいいと思います。

 

「対機説法」は、

一人ひとりに合わせて、

その一人ひとりが「よ~く理解できるように」という、

願いとやさしさが込められているように私は感じます。

 

一人ひとりを大事にしている「対機説法」が、

やはり、私には、とても魅力的です。

 

 

本日も、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

『もう一度学びたいブッダの教え』田上太秀(監修) 西東社

 もう一度学びたいブッダの教え

『お経の話』渡辺照宏 岩波書店

 お経の話 (岩波新書)