今年は、本日(9月25日)が、彼岸明けでしたね。
それぞれ7日間にわたり行われる日本独自の仏教行事、
ですよね。
ご先祖様を偲んだり、
いつも見守ってくださっていることへの感謝の気持ちを伝えたり、
おはぎをつくってお供えをされた方なども、
いらっしゃったことと存じます。
因みに、
春分の日は、自然のあらゆる生命が若々しく萌えあがるときなので、
自然をたたえ、生物をいつくしむ「希望の日」、
秋分の日は、祖先を敬い、亡くなった人を偲ぶ「追憶の日」、
とも言われているそうです(『日本仏教がわかる本』P135参照)。
また、「お彼岸」という行事は、
仏教の「到彼岸(とうひがん)」に由来があるそうです。
仏教では、
人間のいる「迷いの世界」を「此岸(しがん)」と呼び、
神仏のいる「迷いのない、さとりの世界」を「彼岸(ひがん)」と呼び
衆生に「彼岸(さとりの世界)へ到ること」をすすめていますが、
修行によって「さとりの世界へ到達する」ことを、
「到彼岸」と言うそうです。
そして、この「到彼岸(さとりの世界へいたること)」のために、
仏教は、次の6つの修行をするよう、説いています。
(この修行は「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。)
1.布施(ふせ)…………惜しまず施す(与える)こと
2.持戒(じかい)………戒律を守ること
3.忍辱(にんにく)……苦しみに耐え忍ぶこと
4.精進(しょうじん)…たゆまず努力すること
5.禅定(ぜんじょう)…瞑想によって精神を集中・統一すること
6.智慧(ちえ)…………1~5によって完成された智慧を得ること
(『ブッダの教えがわかる本』P80,81を参照。)
修行のうちの一つ、1.の「布施」についてですが、
同じ『ブッダの教えがわかる本』という本の別のページに(P21)、
次のような説明がありました。
布施とは、相手に施しをすることですが、そこで、施しをする人も、される人も、施される物も清浄(しょうじょう)でなければならない……(これを「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」といいます)。つまり、相手を軽蔑したり、おごり高ぶった気持ちで施したり、不正な品であってはいけないのです。
お布施は、「施しをする人」「施しをされる人」「施される物」の
三ついずれもが「清らか」でなければならず、
どこかに一つでも「清らかでないもの」があれば、
「お布施とは言えない」ということになると思います。
「清らか」かどうか、いちいち気にしていたら大変!
のような気もいたしますが、
「ん?何かひっかかる」というような感じで、
案外、簡単に気づけてしまう気もいたします。
また、もし後に、望んでいないような展開になったときに、
「~してあげたのに」という発想になるかどうかで、
「清らかでないもの」があったかどうか、
の目安になるように思います。
おそらく、「~してあげたのに」という発想は、
その行為について、
「私は、したくてそれをした」というものであれば、
出てこないのではないか、と私は思います。
「なぜこんなことになったんだろう?」
はあるかもしれませんが、
「~してあげたのに」にはならない。
「私は、したくてそれをした」ならば、
「清らか」ということではないか、
と思うのです。
もちろん、自分がしたくてするのだとしても、
相手の意向や立場を考える必要はあり、
相手の意向や立場を考えた上での行為でなければ、
「清らか」にあたることはないと思います。
それから、
本当は気がすすまないのだけれども……、
逃げようと思えば逃げられるのだけれども……、
立場上の義務や、「私がしよう」という意志に基づいて
「それをした」ならば、
「私は、したくてそれをした」に該当するように思います。
義務等から逃げるのではなく、
義務等を「果たす」という選択を「自ら」しているからです。
因みに、1回の施しで完成しないお布施もあると思います。
「到彼岸」のためには、修行の積み重ねが必要、
ということなのだろうと思います。
「さとりの世界へ到達する」ための修行には、
「布施」のほかに「持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」が
あるわけですが、「修行」ですので、
「お彼岸」の時期に限らず(お彼岸が明けても)
したほうがいいことになります、ね。
その他の修行については、また機会がありましたときに、
私の考えを述べさせていただけたらと思っております。
お布施に関することでは、
以前、『禅語「和顔愛語(わげんあいご)」。』という記事の中で、
お金を必要とせず、いつでも誰でもできるお布施である、
「無財の七施」をご紹介させていただいたことがありました。
お読みいただけたら幸いです。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用・参考文献