世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「忍耐」について。

ここのところ、テレビをつけると、

財務省の(森友学園)決裁文書の改ざん問題のニュース、

また、その国会審議での様子などが流れていると思います。

 

私は、その様子を見る度に、

この問題から「自殺者が出ている」ということを、

どれほど重く受け止めている国会なのかが気になりました。

 

不本意な立場に立たされ、

自ら命を絶ってしまった財務省職員のことを思うと、

あの国会に、はっきりと「足りないもの」を感じます。

 

「こういうことで死者を出すことは二度とあってはいけない」

「虚偽と真実の狭間で苦しむ人を出してはいけない」

という意味での緊迫した空気があってほしい、

と私は思いました。

 

そのように思う中で、私は、

いつか書きたいと思っていた「忍耐」についてを、

本日の記事にさせていただくことにしました。

 

先日、オリンピック・パラリンピックが閉幕しましたが、

人があることに努力し、また、耐え抜いた姿に、

感動や勇気をいただくことがあります。

 

また、自己の成長のために、

そして、秩序ある世の中を保つために、

忍耐を知り、それをすることができることは、

必要で大事なことだと私は思っています。

 

ただ、何をどこまで「耐えるか、耐えないか」は、

基本的には「本人の自由」だと思っています。

 

但し、

「自分が耐えることで誰かに迷惑をかけることがあるのか」

逆に、

「自分が耐えないことで誰かに迷惑をかけることがあるのか」

を考えなければならないケースもあると思います。

ですので、

「(するかしないか)本人の自由とは言えない忍耐」もある、

と思っています。

 

それから、「してはいけない忍耐」というものもある、

と思っています。

 

「あなたの忍耐」に、「感謝」する人がいるならば、

それは「してもいい忍耐」かもしれません。

 

さらに、精神面での自己鍛錬のつもりならば、

それも「してもいい忍耐」かもしれません。

 

しかし、世の中には、

その人がその人自身で処理するべき事柄なのに、

人を巻き込んだり、人任せにしたり、

人に責任を押し付ける人もいると思います。

 

「あなたの忍耐」を「利用」して無傷であろうとする人に、

あなたは、「あなたの忍耐」をささげてはいけない、

(これが「してはいけない忍耐」)と私は思っています。

 

また、私自身が「忍耐」をするかしないかを決定するのに、

目安にしていることの一つに、

「自分が耐えることを選択したことで生じるものが、

“自分の範囲内”で収まるかどうか」

というものがあります。

 

“自分の範囲内”というのは、

「自分で後始末ができる範囲内」とか、

「自分をコントロールできる範囲内」とか、

そういった意味です。

 

「私さえ耐えていればいいんだ」と思うような事があっても、

また、たとえ自分に原因があって起きた事であっても、

結局、自分だけで処理できなかったり、受け止めきれなかったら、

人に迷惑をかけたり、心配をかけたりすることになると思います。

 

ある事に耐えようとしたけれども、結局耐えられず、

自殺してしまったり、

人に負担を強いることになってしまったり、

人に危害を及ぼしてしまったりといったことは、

“自分の範囲内”とは言えない、と私は思っています。

 

但し、“自分の範囲内”に収めることができないかもしれない、

ということでも、周囲から理解や協力が得られる場合などには、

手がける(耐える)ことに挑戦するのもいいと思っています。

 

また、“自分の範囲内”がどこまでなのかがわからない、

ということもあるとは思いますが、

少なくとも、「ただただ苦痛でしかない忍耐」は、

「しなくていい忍耐」か、または、

「してはいけない忍耐」であり、

“自分の範囲内”にも収まらないものと考えています。

 

「人」というのは、

「許容範囲を超える忍耐」を強いられて、

何が何だかわからなくなるほど苦しい状況に陥れば、

「自殺してしまうことのある生き物」だと思います。

 

だから、

「自分の許容範囲を超えて、自分に耐えることを強要しない」

という考えと、

「他者の許容範囲を超えて、その他者に耐えることを強要しない」

という考えの両方をもって、

自他の、自殺してしまうことのある側面をカバーする必要がある、

と私は思っています。

 

少なくとも、

あまりの苦しさに何が何だかわからない状況に陥り、

自ら命を絶ってしまう前に、

まだ、冷静な判断ができるうちに、

「しなくていい忍耐」「してはいけない忍耐」から離れることを、

ぜひ、していただきたいです。

 

冒頭でも申し上げましたが、

本日、私がこの記事を書いているのは、

自分の許容範囲を超えて強いられたものに苦しみ、

命を絶った人がいるというのに、

それに見合うような空気が感じられなかった国会を見た、

ということがきっかけでした。

 

自ら命を絶った財務省職員であったその方は、

不本意なことをしなくて済む世界」

「虚偽と真実の狭間で苦しむことのない世界」

に行ったのだろう、と私は思っています。

 

ただ、誰もが、

もし、「嘘をついた・嘘をつかされた」としても、

この世に居て、生きたまま、

「私は嘘をついてしまったという“本当”のこと」を言うことで、

この世に居ながら「嘘の世界から抜け出せる」と私は思います。

 

この世を「虚偽と真実の狭間で苦しむことのない世界」、

つまり、「嘘をつかずにいられる世界」にできるのは、

この世を生きている私たちにしかできないと思います。

 

もし、嘘をつかざるをえない環境があるならば、

その環境こそが退かれるべきものだと思います。

 

そして、

「嘘をつかざるを得ない立場に立たされれば“苦しい”と感ずる人」が

この世を「嘘をつかずにいられる世界」にする担い手として、

この世に残るべき人だと、私は思っています。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。