世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

禅語「啐啄同時(そったくどうじ)」。

台風・大雨により被災された方々へ

心よりお見舞いを申し上げます。

 

私は千葉県千葉市に住まいがあり、

台風15号の時には2日間程度の停電に遭いました。

 

9月に入っていたものの、夜は夏のように暑くて眠れず、

冷蔵庫のヒンヤリ感が徐々に奪われていくことを感じながら、

明くる日も段々と薄暗くなっていく空や町の色に合わせて、

「今夜も暗闇の中で過ごす覚悟」をしていった記憶がございます。

 

「いつ復旧するのかわからない」状況下では不安を覚えましたが、

結果的に冷蔵庫の中身を少々処分する程度で済みましたし、

家屋に損傷もなく、私は自分を被災者だとは全く思っておりません。

 

ただ、私の住まいと通りが1本違うだけで、

1週間を超える停電になってしまったご近所があり、

大変であったに違いありません。

また、ブルーシートが張られた家も見かけますので、

大変である真っ最中に違いありません。

 

そして、台風19号による各地の大変な被害についても、

被災者はもちろん、被災者ではなくても、その事態の酷さに、

多くの方々が胸を痛めていることと存じます。

 

台風19号の後、私はテレビで、

足元が泥で埋め尽くされ、家の屋根が吹き飛ばされ、

ブルーシートが風にあたる音がする中で、

片付けに追われている方が「がんばりますよ」と、

インタビュアーの問いかけに答えているところを見ました。

 

この「がんばりますよ」を、

どのような心境で、どのような意味でおっしゃったのか、

わかったつもりになって言葉で表現することはできない、

と思っています。

 

ただ、この「がんばりますよ」に、

できるかぎり、たくさんの応援をしていきたいと思いました。

 

そのような思いを抱いている中、一昨日(10月25日)の大雨で、

私は一時、帰るための交通手段をなくしました。

 

しかし、私が利用している交通機関が運転を再開してくださったので、

結局その日、帰宅できなかった千葉県民もいる中で、

私は日付が変わる前に帰宅することができました。

 

ふだん、当たり前のように利用している交通機関が、

このような状況下で運転を再開してくださり、

いつもの何倍もの時間をかけて帰宅となりましたが、

その長い時間の中で、

私が日々どこへ出かけて行っても自宅へ帰ってくることができるのは、

この交通機関のおかげであることを改めて感じて、

つくづく、帰る手段のあることのありがたみを感じました。

 

交通機関で働く方々は、被災者でありつつ、

被災者を応援する方々でもあったことと思います。

 

そして私は、被災した方々、その方々を応援する方々、

その両方に該当する方々が、困難の時を耐えて、

力を合わせて一歩でも前進しようとするところに、

禅語の「啐啄同時(そったくどうじ)」を感じました。

 

『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』という本には、

「啐啄同時」について、次のように説かれています(P26)。

親鳥のおなかの下で温められた卵が、ある日突然動き出す。コツコツ、コツコツ。卵の中の雛が内側から殻をつつく音。これが「啐(そつ)」。ちょうどその時、親鳥は卵の変化を察知して外から殻をつつく。ここをつつきなさい。ここを破るのですよ。早く出ておいでとばかりに。これが「啄(たく)」。  

そして、

「雛と親鳥の殻をつつくタイミングが同じであること。それが「啐啄同時」。」であると書かれています(P27)。

 

雛自身の成長を待つ必要があり、

しかし、雛に自分で殻を破る力がなかったとしたら、

卵の中で力尽きてしまうこともあるため、

早くもなく、遅くもない、絶妙なタイミングで、

雛と親鳥が“殻をつつき合う”ことの大事さを説いているのが

「啐啄同時」なのだと思います。

また、“内からの力”と“外からの力”を合わせて殻を破っていく

という教えも感じられます。

 

「啐啄同時」は、「親と子」や「先生と生徒」など、

導く者と導かれる者との関係で説かれているもののようですので、

私がこの状況下で「啐啄同時」を思うのは少々違うのではないか、

と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、私は、この度の台風や大雨で、

被災した方々が「がんばりますよ」と言って、

その方々を応援する方々ができるかぎりの応援をしようという姿は、

“内からの力”と“外からの力”を合わせて

今、目の前の困難を一緒に乗り越えようという姿なのであって、

一緒に“殻をつつき合う”という「啐啄同時」を感じるのです。

 

もちろん、弱気になったり、弱音を吐くことがあって、

不安になって、当然だと思います。

そして、その当然こそ、皆で力を合わせて、

がんばって乗り越えていくものだと思います。

 

また、自分を応援してくれる方々の存在に気づいて、

「私、がんばろう」と思えてくることもあると思います。

 

もし、右手にケガをしたら、左手にがんばってもらって、

もし、左足にケガをしたら、右足にがんばってもらって、

日々を過ごすと思います。

 

ケガをしたら、元気なところにがんばってもらうのだと思います。

ケガをしたら、元気なところがそこを牽引していくのだと思います。

その間、ケガをしたところは、

「治ろう、治ろう」とがんばるのだと思います。

 

私は、「がんばりますよ」の声に心を打たれています。

 

天災はいつどこで起こるかわかりませんから、明日は我が身です。

もし、私が被災したら、私も「がんばりますよ」と言いたいです。

 

どのような心境で、どのような意味であったとしても、

「がんばりますよ」から何かが始まるように思います。

 

被災した側となっても、それを応援する側であっても、

また、その両方に該当するのだとしても、

「啐啄同時」を思って、「力を合わせて」がんばることに、

がんばり続けることに、違いはないと思っております。

 

まずは、自分のできることから始めて、

自分のできることを増やしていきたいと思っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』佐藤隆定 国書刊行会

 糧になる禅語 いまを充実させる生き方

 

※次回の記事更新は「12月」を予定しております。

 更新にお気づきいただきましたときに、

 また、皆様のご都合がよろしいときに、

 お読みいただけましたら幸いでございます。