世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「生きること」について。

コロナ禍、地震災害など、被害に遭われました方々に、

心からお見舞いを申し上げます。

 

また、医療に従事してくださっている方々に、

そして、その方々を支えてくださっている方々に、

私たちは本当に助けられていると思います。

どうもありがとうございます。

 

 

なかなか落ち着きを取り戻せない世の中で、

辛い時間を長く過ごされている方が多くいらっしゃることと存じます。

 

「生きていけない」「死にたい」と思っている方も、

いらっしゃることと存じます。

 

私は、命あるすべての方々に「生きてほしい」と思っています。

 

本来、私の思う「生きること」については、

述べようとすれば、読んでくださる方を疲れさせてしまうほど、

かなりの長文になってしまいます。

ですので、この度は、ブログの記事であることを踏まえて、

短めに述べさせていただこうと思います。

 

私は、「生きる」というのは、

命ある限り“する(生きる)もの”だと思っています。

悲しくても、つまらなくても、するものだと思っています。

 

すでに楽しいことがあれば、幸いだと思います。

もし、積極的に楽しいことを見つけようとして見つかれば、

それも幸いだと思います。

 

もし、楽しいことがあれば、

“生きることは、しやすいこと”になっていくと思います。

だから、楽しいことはたくさんあってもいいし、

一つのことで充実させてもいいと思います。

 

楽しいこと、嬉しいこと、ときめくこと、

好奇心をくすぐられることなどは、

細胞が生き生きとしてくることもあって、

心身ともに生きていきやすくしてくれるものであり、

むしろ、「生きてきてよかった」と思わせてくれることもある、

と思います。

 

これとは逆に、楽しいことがない時や、悲しい時、辛い時、

特に悲しいことはないけれど何もない時などにも、

「生きていきにくい」と感じることがあると思います。

 

そして、度重なる困難に、くじけそうになることがあると思います。

「むしろ、倒れてしまいたい」と思うこともあると思います。

 

夢や希望を見失えば、

これから先、生きていくことに意味があるのだろうか、

と思うこともあると思います。

 

しかし、楽しいことがないから、悲しいことばかりだから、

というのは、「生きるのをやめる理由」にはならない、

と私は思っています。

 

「命を授かった」こと、それが「生きる開始のサイン」であり、

「命を授かった」こと、それだけで「生きていく理由」となり、

楽しいから生きていくのではなく、悲しいから死ぬのではなく、

人は、命を授かった時から「生きることになっているから、生きる」

のだと私は思っています。

 

「人生を楽しむために生まれてきました」と思う人がいても、

もちろんいいと思います。

しかし、人生を楽しめなくなった時に、「だから死にます」

という思いにつなげてはならないと思います。

 

命を授かった時から生きることになっている私たちは、

人生を充実させればいい、と私は思っています。

 

ただ、何らかの感情が生じている出来事の経験は、

すでに充実が始まっていて、自分がその始まりに気づいていないだけ、

ということがあると思います。

また、どう対処すれば充実になるのかわからない、

ということもあると思いますが、考えている・悩んでいることも、

私は充実が始まっていると思います。

その気になったら、そこからもう一歩、出てみてほしいです。

 

私は、楽しいことは、生きることを応援してくれるものであり、

悲しいことは、乗り越えることで、生きる力を強くするもの、

だと思っています。

 

また、楽しいことがあって明るい人は他の誰かに明るさをもたらし、

悲しいことがあってもくじけない人は他の誰かに希望をもたらす、

ということがあると私は思っています。

 

楽しいことも、悲しいことも、何もないことも、

自分がどのようにとらえて、自分がどのようにふるまうかで、

“充実”というところに行き着く可能性はいつもあると思っています。

 

ここで、私が時に頭の中で口ずさむ、

『修証義(しゅしょうぎ)』というお経に出てくる一文を

お伝えしたくなりました。

 

「己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり」

(おのれにしたがいゆくはただこれぜんあくごっとうのみなり)

 

これについて、『曹洞宗のお経』P104に、

「自分についていくのは、ただ心でなした善と悪の行為の習慣だけ」

という意訳が付されています。

 

この一文の前を割愛させていただきましたが、

これは、私たちが亡くなった後、

魂が行くところとされる黄泉の国へ行く時のことで、

何も持っていくことはできないし、

この世で権力や地位や財力があったとしてもそれは関係がなく、

家族や友人に一緒について来てもらうこともできない……但し、

「自分が日常生活を送る中で持っていた心と、してきた行いが

“積み上げてきたもの”は自分についてくる」という内容のものです。

 

何かに一生懸命になったり、怠けたり、いい加減にしたり、

成功に喜んだり、失敗に悲しんだり、笑ったり、怒ったり、

誰かを恨んだり、誰かを思いやったり……と、

自分の心をどのようにしてきたか。

それで、どのような行いをしてきたか。

 

楽しいことや悲しいことがあって、それでどうしたか。

それで、自分の心に何を宿して生きてきたか。

 

これまで持っていた心と、してきた行いが積み上げてきたもの、

それだけが、黄泉の国へ行く時に自分についてくるとしたら……

 

私は、「明るい心」「負けない心」でありたいですし、

「やさしい心」「強い心」を持てるようでありたい、

そういった心を宿して、行いを伴って、充実した日々を、

生きていきたいです。

 

もう一度、一文を繰り返しますが、

「己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり」

(おのれにしたがいゆくはただこれぜんあくごっとうのみなり)

という一文は、まちがった考え方を採用するわけにはいかない、

しかも、“それはきっとまちがっている”と思いながら、

まちがった考え方や行動を選択するわけにはいかないという、

私を律する言葉として、かつ、私を応援する言葉として、

私の中で生きています。

 

コロナ禍でも、震災に遭っても、諸々の困難があっても、

生きていきにくい中を耐え続け、生きる道を選んで進み、

何らかの手立てを考え、人生に取り組む方々の心に宿るものは、

輝きを放つに違いないと思っています。

 

むしろ、もうすでに輝いているような気がいたします。

 

辛く悲しい時を過ごしている方々が、

「私、よく頑張っている!」と、

ご自分に声をかけているといいな、と思っています。

 

生きる道を選んで今日を迎えている方々は、

すでによく頑張っているに違いないですから。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

曹洞宗のお経』監修/中野東禅 双葉社

曹洞宗のお経 (わが家の宗教を知るシリーズ)

 

 

※次回の記事更新は「7月」を予定しております。

 更新にお気づきいただけましたら、

 そして、皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 幸いに存じます。