世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「末法(まっぽう)時代」に私が願うこと。

久しぶりに記事を更新させていただきます。

 

コロナ禍にあり、非道な戦争が起き、再び大きな地震があり、

とても大きなことが起き続けていると感じております。

 

また、大きい小さいにかかわらず、

解決方法が見出せない問題を抱えていたり、

世間と空気が合わず、孤独を感じたり、

誰にも知られていない個人的な悩みをお持ちの方も、

きっといらっしゃることと存じます。

 

ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

仏教に「末法思想(まっぽうしそう)」という思想があります。

 

いつからか、私はその「末法(まっぽう)」という言葉が、

時折、脳裏に浮かぶようになっておりました。

 

ブッダ法然』という本のP225には、「末法思想」について、

 これは、時代が下るほど世の中が悪くなるという仏教独自の歴史観であり、三つの時代に分類される。

 最初は正法(しょうぼう)(仏滅後五〇〇年)といい、教(教法)と行(実践者)と証(覚り)の三つがそろっている時代である。つまり、ブッダの教えが存在し、それを実践する人がいて、実際に覚りを開く人がいる時代である。

 その後には像法(ぞうほう)(正法後一〇〇〇年)の時代。教えがあり、それを実践する人もいるが、覚りを開く者がいない時代がやってくる。そして最後に末法(まっぽう)(像法後一万年)という世も末の時代が待ち構えている。この時代にあるのは教えだけであり、それを実践する人も、覚りを開く人もいない時代である。日本では一〇五二年が末法元年と考えられた。

と書いてあります。

また、同じ本のP22には、浄土宗の開祖・法然が生きた時代に、

 日本では飢饉や疫病といった問題や、台風・大雨・旱魃(かんばつ)などの天変地異、さらには僧兵に代表される寺社の腐敗・堕落や政変など、社会のあらゆる局面で混乱が日常化していたので、人々はこれを末法と関連づけた。

と書いてあります。

末法と向き合った法然上人(ほうねんしょうにん)につきましては、機会があれば記事にさせていただきたいと思いますが、今回の記事では割愛させていただきます。)

 

日本が1052年に末法時代に入ったという仏教の思想にしたがえば、

私たちは今、「末法時代・末法の世」を生きていることになります。

「あるのは教えだけ」であり、それを実践する人や、

実際に覚りを開く人はいない時代にいるわけですが、

私は“教えだけでも残っていてよかった”と思っています。

また、“教えだけが残る”という時代に生きていることには、

何か意味があるのかもしれない、とも思っています。

 

起きてしまった戦争に経済制裁を与えることも、

行けばいじめられることがわかっている学校を休むのも、

応急的な対応としては必要だと思います。

 

ただ、応急的な対応は、あくまでも応急的なのであって、

繰り返しているうちに疲労が増し、また、

繰り返しているうちに不適切なものとなったり、

決して、将来の不安まで払拭してくれるものではないと思います。

 

だからと言って、世界から戦争をなくして死者を出さないことも、

社会の非情や非道に耐えられず、また、いじめに遭って苦しみ、

自殺する人たちを出さないことなどの根本からの解決は、

非常に難しいと言わなければ現状を見ていないことになる、

と思います。

 

しかし、非常に難しくても、根本からの解決は、

世界中の人々、一人残らず全員が、

「一人ひとりの命を大事に思えること」

これしかない、と私は思っています。

 

「一人ひとりの命を大事に思えること」というのは、

ありふれた言葉だと思います。

 

しかし、このありふれた言葉通りの世の中になることは、

なんて難しいことなのだろうと思います。

 

私は昔、「雨降って地固まる」ということを信じて、

ある人に、思ったことを伝えてみたことがあります。

しかし、無視にちかいくらい、反応がありませんでした。

つまり、「雨降って地固まる」というのは、

相手も同じように「雨降って地固まる」という考え方をしている、

という場合にだけ有効なのだと、その時、思いました。

 

ですので、「一人ひとりの命を大事に思えること」という言葉も、

「本当にそれが大事なことだ」と思えない人には届かない、

と私は思っています。

 

しかし、そう思っても、それでも、根本からの解決は、

やはり、世界中の人々、一人残らず全員が、

「一人ひとりの命を大事に思えること」

これしかない、と思います。

 

意見が合う人とはあまり問題が起きないと思いますが、もし、

「意見が合わなくても、私の命は大事にされている」と実感でき、

「意見が合わなくても、あなたの命は大事である」と本心で思う、

ということがそろってあれば、

意見が合わないことなど大した問題ではないようにさえ、

思えて参ります。

 

やはり、「命の大事さ」が何よりこの世に浸透することを、

私は望みます。

 

私は、今この世で生きている命も、この世を去った命も、

大事だと思っております。

 

いくら嘆いても戻ってこない命になったからといって、

その命が大事ではないものにはならないと思います。

 

身体の動かない、もう声を発することもない命も含めて、

全ての命がいつまでも大事なものであり続けるのと同じように、

世界中の人々、一人残らず全員が、

「一人ひとりの命を大事に思えること」という私の願いも、

ずっと続いていきます。

 

「一人ひとりの命を大事に思えること」という言葉が、

「本当にそれが大事なことだ」と思わない人の心に、

何ら響かないものであったとしても、

こちらが訴え続ければ、“騒音”くらいにはなるかもしれません。

もし、“騒音”としてでも“耳”に届くようになれば、

いつかは“心”に届くかもしれません。

 

私は、日常的な場面なども含めて、

「願うこと」というのは、叶う見込みがないように見えても、

“したほうがいい”と思っています。

時に、沈黙で願うしかないこともあると思いますが、

沈黙はもちろん終わりではありませんし、

むしろ、沈黙の中に捨てられていない希望がある、

と捉えることもできると思います。

(余談ですが、「ブッダは沈黙で語る」という言葉があります。)

 

日々、非情なことがあり、災難があり、

様々なことが起きるのはやむを得ない面があるとわかっていても、

がんばっても報われないと思ってしまうことがあると思います。

 

しかし、自分にできることを、一喜一憂せずに、

無理をしたいときはちょっと無理をして、

無理をしたくないときは決して無理をせず、

そうやって続けていく先に、

報われる日はおとずれるのだと思います。

 

『法句経(ほっくきょう)』や『ダンマパダ』という名で知られる、

仏教の経典の中に次のようなものがあります。

 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

(『ブッダの真理のことば 感興のことば』119・120から引用。)

 

否応なしにおとずれる困難に、誰も負けないでほしい、

このような願いを、きっと多くの方が本心でお持ちだと思います。

 

そして、正法や像法の時代よりも、

非常に厳しい「末法」という時代に生まれてきた私たちは、

「本心に本気に取り組むことができる素質」を持っている、

という気が私はしています。

 

末法」という時代は、

悲嘆にくれて下を向いている時代なのではなく、

人を「本気にさせる」時代なのではないでしょうか。

 

私は、世界中の人々、一人残らず全員が、

「一人ひとりの命を大事に思えること」を本気で願い、

もし困難な状況がおとずれても、

そこからなかなか抜け出せなくても、

より多くの方々が、

困難な状況に負けて願うことをやめてしまわないこと、

がんばったことの報いのおとずれを待っていられることを、

心から願っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

ブッダ法然』平岡聡 新潮社

 ブッダと法然(新潮新書)

ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元 岩波書店

 ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

 

 

※次回の記事更新は「2022年7月」を予定しております。

 皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 とても幸いに存じます。