「これがあるから、私は生きていける」と思うこととか、
「これまで、生きてきてよかった」と思うこととか、
そういうことを、「生きがい」という、と私は思っています。
しかし、「これがあるから、私は生きていける」
と思っていたものを失ったとき、
生きていけなくなるならば、
「生きがい」は、ないほうがいいのかもしれない、
と私は考えたことがあります。
私は、これまでの人生の中で、猫と暮らしていた時間がないのは、
2年間だけです。
以前、一緒に暮らしていたある猫を、私は溺愛していました。
亡くなってから、もう15年になります。
その猫は、晩年、体調を悪くすることが多く、
私は、「この猫がいなくなったら、
私も一緒にいなくなってしまうのではないか」
と思っていたくらい、溺愛していました。
そして、亡くなったときは、ずいぶん泣きました。
墓苑に埋葬しました。
お墓も買いました(母と共同出資で)。
お彼岸、ご命日など、何度かお墓参りに行っているうちに、
「供養」が、心のざわざわを静めてくれることを知りました。
また、ご住職が、説法の中で、
「供養は、こちらの世界にいる
私たちのためのものでもあるんですよ」
とおっしゃっていたのが、よくわかりました。
私は、その当時、その猫が「生きがい」だったのだと思います。
しかし、その「生きがい」をなくした今も、私は生きています。
「生きがい」をなくして、次の「生きがい」が見つかるなら、
それもいいと思います。
しかし、わざわざ探そうとすると、なかなか見つからないもの
だろうとも思います。
私が、その当時、「生きがい」をなくしても、生きてこれたのは、
一緒に楽しく暮らしてきて、癒やしてもらって、
感謝しているその猫に、
「悲しい思いをさせて、ごめんね」なんて
言わせてはいけない、
という思いがあったからだと思います。
「生きがい」がなくても、人は生きていける
ということなのかもしれませんし、
または、
その猫に「ごめんね」と言わせないことが、
私の、新たな「生きがい」になった、
ということなのかもしれません。
いずれにしても、
私は、「生きてきてよかった」と、
今も、しっかり思っています。
お読みくださいまして、ありがとうございました。