世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

私にとって、「清濁併せ呑む」とは。

相変わらず、春夏秋冬の順番は変わらず、

暑い夏がやってまいりました。

 

暑いですが、野球観戦が好きな私は、

せっせと球場へ通っています。

 

今年の3月はWBCワールド・ベースボール・クラシック)の

テレビ中継に釘付けになっていました。

そして6月に3週間限定で公開されていた、

侍ジャパンに完全密着したドキュメンタリー映画

『憧れを超えた侍たち 世界一への記録』も観に行きました。

 

試合のことも、選手のことも、映画のことも語りたい!

のはやまやまですが、今日の記事は違うお話です。

 

野球にあまり興味がない方でも、WBCに出場していた、

ロサンゼルス・エンゼルス大谷翔平選手をご存知の方は

多くいらっしゃることと存じます。

 

以前、その大谷選手が、

中村天風(なかむらてんぷう)著『運命を拓く 天風瞑想録』

という本を熟読していたことが話題になったことがあります。

私もその本を拝読しています。

 

そして私は、中村天風と聞けば一番に思い出す言葉があります。

 

それは、中村天風著『折れない心!』という本にある言葉で、

今日は、その言葉をご紹介させていただこうと思います。

清濁を併せのまない心でこの混沌たる人生を活(い)きると、自分の活きる人生世界が極めて狭いものになってしまう。(P78)

 

ここでは、「清濁を併せのむ寛容さ」を失ってはならない、

ということが説かれています。

 

また、『広辞苑』によれば、「清濁併せ呑む」というのは、

「善・悪のわけへだてをせず、来るがままに受け容れること。度量の大きいことにいう。」

という意味だと書いてあります。

 

寛容さ、度量の大きいこと、

それは確かに大事なことだと思います。

 

ただ、私が中村天風のこの言葉から感じたことは、

それとは少々違うことです。

「世の中の事象が混沌としているのに、

 混沌としていないことを前提にした生き方では、

 しょっちゅう躓(つまづ)いてしまうだろうし、

 混沌としているところを避けていれば、

 “狭い道”を行くしかないということになる」

ということが、思い浮かんだのでした。

 

つまり私は、

「世の中が混沌としているとは思いつつも、

 私は混沌としていることを承知できず、

 だから、おそらく、これまでの私の行動は、

 世の中が混沌としていないものとしてのものだった」

だから私は、

「躓きながら、狭い道(狭い人生)を歩んできたのだ」

ということに、そこでようやく気づいたのです。

 

そして私は、世の中の混沌をちゃんと見て、

その混沌に見合うあり方と、自分の納得のいく道を併せて考え、

人生として歩む道をできるだけ狭いものにしないようにする、

といったことをしていきたいと思うようになりました。

 

しかし、

広辞苑』の「清濁併せ呑む」の意味の中で示されている

「善・悪のわけへだてをせず……」については、

私はこれまで「善・悪のわけへだて」をしてきたし、

これからも、し続けるだろうと思います。

 

「善・悪のわけへだて」をしないということは、

様々な考え方の人を受け入れて、あらゆる物事を受け止めて、

確かに人生世界は“広く”なるかもしれません。

 

しかし、「善・悪のわけへだて」をしないことで、

人生世界が“歩みやすく”なるとは、私には思えないのです。

 

私が「善・悪のわけへだて」をする一番の理由は、

わけへだてをしないことで「善」に意味がなくなる、

ということを避けたいからです。

そして、「善」に意味がなくなった世の中が歩みやすいとは、

思えないのです。

 

また、念のために申し上げておこうと思うのですが、

私が思っている「善・悪の“わけへだて”」は“分類”

といった意味合いのものです。

 

「悪」に対して、いい方向への転換があることを望むことが、

「善」の考え方だと私は思っています。

ですので、

「善」と「悪」を対立関係で見ているわけではありません。

 

私にも悪いところはあると思っていますし、

それを改善したいとも思っています。

 

そもそも何が善で、何が悪かの分類がなかったら、

「悪」から「善」への転換を望むことができず、

「善」の方向を指し示すこともできないと思います。

物事へのよりよい対処の仕方を考え行うためには、

私は、“分類・わけへだて”が必要だと思うのです。

 

また、このような“分類・わけへだて”をしていると

善悪の間にあるものや、善でも悪でもないもの、

人による善悪の捉え方の違い、

自分が善だと思っていたことが、実は善ではなかった……

といった気づきを得ることができるとも思っています。

 

さらに、自分の考え方の柔軟性や先入観の有無などにも

気づくことができると思います。

 

このような気づきから修正ができれば、

それも自分の人生の歩みやすさにつながると思います。

 

このように、「善・悪のわけへだて」をする私は、

広辞苑』に書いてある「清濁併せ吞む」の意味とは、

少々違うことを考えていることになると思います。

 

また、『広辞苑』の示す「清濁併せ呑む」の「清濁」は、

「善悪」のことになると思います。

 

しかし、私が「清濁併せ呑む」というときの「清濁」は、

「すべて」の事柄が対象です。

善悪や善悪の間にあるもの、その周辺にあるもの、

善悪のどちらでもないものなどすべてを含みます。

 

さらに、「清濁併せ呑む」の「呑む」についてですが、

「飲む」ではなく、「呑む」という文字は、

条件や要求を受け容れる場合に使われる文字のようです。

ですので、

自分にとって受け容れ難い出来事や相手の言い分など、

度量を大きくして受け容れる場合には「呑む」を用いる

ということでよさそうです。

したがって、ここに「呑む」が使われているのは、

当たっている気もいたします。

 

しかし、私の考えは、ここでも少々違います。

私は、「(清濁を)併せ呑む」については、

「我慢して受け容れたものではないこと」が必要で、

度量を大きくして受け容れるのだとしても、

“よく考えてみたら”受け容れることができるものだった、

という場合に受け容れるものであってほしいのです。

 

私の思う「(清濁)併せ呑む」は、

“(二つ以上の)味がケンカしない”から、

(その二つ以上のものを)無理なく呑んだ、

という状態なのです。

 

受け容れられないものは、受け容れないほうがいい、

ということも、きっとあると思います。

 

もちろん、人によって善悪の基準は違うわけですが、

人によって善悪の基準が違うことが、

善悪について考えても仕方ない、

ということにはならないと私は思っています。

 

まず、自分がどのような善悪の基準を持っているかの把握が

必要だと思います。

この把握があるから、基準の違う人への歩み寄りができたり、

歩み寄ろうとすれば自分が無理をすることになる、

ということにも気づくことができるのではないかと思います。

 

以上の私の考えをまとめてみます。

 

善悪や善悪の間にあるもの、その周辺にあるもの、

善悪のどちらでもないものがわかるのは、

「善悪の分類・わけへだてをする」からである。

 

「清濁併せ呑む」とは、

決して、無理に寛大を装うものであってはならず、

「世の中のあらゆる様相の清濁(善悪)があることを承知して、

清濁(善悪)について考えながら自分の信じた道を選び歩み、

その歩みで人生が広くなり、無理なく呑めるものが増え、

そのようにしてきたからこそ、人生が歩みやすくなる」

というものである。

 

「無理なく呑める」というのは、

「受け容れることができるものと、

受け容れることができないものとの併存に、

自分が苦しまない」ということでもある。

 

「清濁を無理なく併せ呑めた」目安は、

「自分の進みゆく道が歩みやすくなった時」である。

 

私は、以上のような考え方をしています。

 

人は、純粋に「清く」あろうとして、

また、「濁り」に遭遇したら、染まらないようにしようと思う、

ということが大事なのではないかと思います。

 

たとえば、悪いほうへ行きそうな自分を「濁」と考え、

悪いほうへ行かないと思い直せたことが「清」とすれば、

これは、「清が濁を吞み込んだ」ことで起きた「清濁併せ呑む」

という一つの現象だと思います。

 

たとえ、すでに悪いほうへ来てしまったとしても、

これから善いほうを向いて歩み始めようと思えるならば、

「濁っていたものが、清く澄んだものに変わっていく」

ということになると思います。

 

清らかなものがますます清らかになるのはもちろんいいですが、

濁っていたものが清らかになっていく変化が見られるのは、

この世の中の“楽しい”ところだと私は思います。

 

私は、楽しいことが大好きです。

 

皆様の目にも、楽しい世の中が映ることを望んでいます。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

『運命を拓く 天風瞑想録』中村天風 講談社

 運命を拓く (講談社文庫)

 

『折れない心!』中村天風 扶桑社

 折れない心 (扶桑社文庫)

 

中村天風の著作物には厳しいことも書いてありますが、

 人を思い、溢れんばかりの愛情から発せられている言葉なので、

 読めば「とにかく元気が出てくる」という印象があります。

 そして、多くの気づきが得られると思います。

 機会がありましたら、ぜひお読みになってみてください。

 (^^)

 

※次回の記事更新は「11月」を予定しております。

 皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 幸いに存じます。