ようやく春が感じられる季節となりました。
私は先日、太陽の日射しに照らされて気づいたことがありました。
そして、「回光返照(えんこうへんしょう)」という禅語を
思い出しました。
「「回光」とは、光り輝いていた太陽。「返照」とは、太陽が西に沈む時、空が反射して明るく光ること。」
という意味であると、『あらすじとイラストでわかる禅』(P177)に
書いてあります。
続いて「この現象を捉えて、外へ向かう心を翻(ひるがえ)して、内なる自己を反省し、本来の面目を明らかにするという意味に使われる。」
という説明がありました。
簡単に申し上げれば、「回光返照」は、
「自分の内面を照らして、自分を省みる」
ということだと思います。
そして本当に、自分の内面は太陽に照らしてもらうのがいい、
と私は思います。
「自分を省みる」という作業は、
自分の力だけでは、なかなかうまくできないことがあります。
何か問題が起きた時に、自発的にすることもあると思いますが、
問題が起きたとしても「省みなければ」という気持ちにならない、
という人もきっといると思います。
実は、この私にそういうところがあるのです。
「自分の内面を見なくてはいけない」という場面で、
そのことに気づかないで過ごしていることがあるわけです。
後々、この「気づかないでいたこと」に気づいた時、
ハッとしました。
なぜ、気づくことができたのかといえば、
それは、太陽のおかげです。
太陽の日射しに照らされたとき、
「私の心には、日が当たらないようにしている箇所がある」
ということに気づきました。
この箇所というのは、太陽にはお見通しという気もしましたし、
この箇所の奥には、「自分のなかの仏さま」がいる、
という気もしました。
実は、「回光返照」という禅語は、
『ほっこりやさしい禅語入門』(33ページ)でも紹介されており、
「心を外に向けずに、内側に向け、自分のなかにある仏さまを明るく照らし出すということ」
という意味であると書いてあります。
私は、(太陽がすでに私の心をお見通しであったとしても)
隠そうとするのはやめるという意識をもって、
“自ら”自分の心すべてを太陽に見せることができれば、
「自分のなかの仏さま」まで日射しが届き、
心が“ぽかぽか”になるのではないか、と思うのです。
「春の暖かい日射し」と「その日射しに照らされる仏さま」
を想像すると、とてもマッチしているように思います。
ですので、春のやさしい暖かな日射しで「自分の内面を照らす」
というのがいいと思います。
因みに、夏のギラギラした太陽を想像すると、
「日射しが強すぎる」と感じます。
私なりのたとえではありますが、
夏のキツイ日射しを“辛い場面”として、
春のやさしく暖かな日射しを“柔らかなクッション”に見立てると
辛い場面の到来よりも先に、
柔らかなクッション(衝撃を和らげる・受け止められるクッション)
を備えておくことができるのだな、と思うのです。
夏の強い日射しが自分の心を鍛えることもあるかもしれませんが、
まずは、夏のギラギラした太陽に照らされても大丈夫な心の基盤を
春のうちに準備しておくといいのではないかな、と思うのです。
それは、
心の奥までじっくり、やさしく暖かい春の日射しを行き届かせ、
自分のなかの仏さまの存在に気づいて心地よく、心強くなっておく、
ということです。
心理的に落ち込んでいるとき、
太陽のまぶしさに負けそうになることがあると思います。
そのようなときは、目を閉じて、心にだけを日射しを浴びる、
または、自分のなかの仏さまにだけスポットライトを当てる、
ということでもいいと思います。
私が先日、太陽の日射しに照らされて気づいたことは、
「私の心には、日が当たらないようにしている箇所がある」
ということのほかに、
「自分のなかの仏さまと、柔らかなクッションがあれば、
心はいつも“ぽかぽか”で、穏やかでいられるような気がする」
ということでした。
私は、「回光返照」という禅語は、反省を促す意味以上に、
閉ざして冷えているような、硬くなってしまった心を、
太陽の力を借りてほぐして、自分のなかの仏さまを照らして、
「心を“ぽかぽか”にするのを忘れないように!」
ということを伝えているのだと私は思います。
新しいスタートを切るような時期に向けて、
皆様の心が“ぽかぽか”でありますように、
願っております。(^^)
夕陽は穏やかでいいですね!
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『あらすじとイラストでわかる禅』知的発見!探検隊 イースト・プレス
『ほっこりやさしい禅語入門』石飛博光と鴻風会 成美堂出版
ほっこり、やさしい禅語入門―心豊かな毎日をおくるための禅のことば
※次回の記事更新は「7月」を予定しております。
皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、
幸いに存じます。