もうすぐ4月になりますね。
現実として寒い日があるものの、
“4月”と聞くだけで、
柔らかい陽ざしが思い浮かびます。
ふだんから私は頭(考え方)が硬いので、
頭を“春の陽ざしのように柔らかく”したいと
いつも春の陽ざしに憧れを持っています。
そして、ここのところを思い出していたのが
「両忘(りょうぼう)」という禅語です。
『糧になる禅語』という本で、
次のように説かれています(P62,63)。
「意見が衝突した時、よく起こりませんか? 「どちらが正しか」議論。
……人がその頭のなかに所有している物差しには……その人の価値観に基づいた目盛りが付けられているのです。これではいくら話し合っても平行線。
……だから正しいという言葉は同じでも、その意味するところは人によってズレがある。このズレが衝突の原因となる場合も多々あるのです。
そらなら既存の尺度に当てはめて物事を考えるのではなく、何の物差しも用いないでゼロから考えてみればいいじゃない。それがこの「両忘(りょうぼう)」という禅語の説くところ。大小、高低、左右、是非、善悪、自他、迷悟、AとB。あらゆる相対の両極を離れて……真実とはそうやってゼロから考えることでしか知ることのできないものだからです。」
さらに、
「和解とは、両者が物差しを捨てて、直に物事を見つめることではじめて生まれるもの。」
と書いてありました。
確かに、「どちらが正しか」という議論は、
昔から姿を消さないですよね。
本に書かれているように、
「両者が物差しを捨て」なければ、
なかなか和解には至らないので、
つまり、どちらかが物差しを捨てただけでは、
和解はなかなか難しいと私は思います。
相手を無視して、自分の物差しで物事を考えたり、
何かを決定したりしてはいけないと思います。
しかし、生まれた時から今日までに積み重ねてきた経験で
自分の物差しができていると思えば、その物差しを
捨てるとか、変えるとか、容易なことではないと思います。
また、自分が今持ち合わせている物差しを
気に入っているならば、わざわざ捨てなくても
いいのではないかなと、私は思います。
私は「正しいとは、的を射ること」だと思っています。
ですので、意見が合わない人と出会った場合、
ここで「的を射る」とはどういう結末に至ればいいのか、
と考えます。
「両忘」という禅語は、
「両極を離れましょう」ということですが、
自分にとっても相手にとってもいい結末(=的を射た状態)
を迎えられるならば、
「すべて忘れて、“すべてのしがらみから離れましょう”」
といった具合に、解釈を拡げてもいいと思います。
ただ、私は、「両忘」という禅語は、
自分の物差しを頑なに譲らない人が多いので、
「自分の物差しを捨てましょう」と説いたのであって、
「譲る」とか「相手を苦しめない」という配慮ができればいい、
そして時に、「これは譲れない」ということもあるけれど、
ただ、「自分の物差しでかえって自分を苦しめないように」
ということを伝えているのではないかと思っています。
そして、私はこのように思っています。
「“春の陽ざしのように柔らかい心”が自分の物差し」
になればいいのではないかと。
自分の物差しを違うものに変えたら、
「既存の自分の物差しを捨てた」ということにも
なるわけですし。
ただ、捨てたのか、変えたのか、という議論も不必要で
“春の陽ざしのように柔らかい心”を穏やかに目指して、
日々を過ごしていればいいのではないかと思います。
すべての人に、
暖かい春の日が訪れることを楽しみにしております。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』佐藤隆定 国書刊行会
※次回の記事更新は「7月」を予定しております。
皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、
幸いに存じます。