世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「あたりまえの素晴らしさ、ありのままの素晴らしさ」について。

豪雨・土石流の被害に遭われました方々に、

心よりお見舞いを申し上げます。

 

前回、ブログの記事を更新してから約4か月が経ちますが、

甚大な被害をもたらした災害があり、

依然としてコロナ禍にあり、

オリンピック開催の時が迫り、

政府に対する不信も、政治家の問題発言も、

以前からあったことではありますが、

私はいつからか、政治関連のニュースを見れば見るほど、

“疲れる”ようになった気がいたします。

 

また、ワクチンの接種が始まったとはいえ、

不足している・予約が取れないなどの停滞があったり、

コロナウィルスを侮ってはならない認識はしていても、

あまりに長期にわたっているために、

自粛に疲れ、予防に疲れ、慣れも出て、緊張感を保てないなど、

この状況に多くの方が疲労を感じていらっしゃることと存じます。

 

私もコロナウィルスを侮ってはならないと思っておりますが、

いつのまにかマスクをつけることが当然のことになり、

わざわざ注意を払わなくてもマスクを忘れて外出することはなく、

つまり、私にも慣れが出てきていると思います。

 

そのような中、ふと、気がついたことがありました。

「私は、顔の両側に耳があるからマスクをつけられるのだ!」と。

(今はいろいろなマスクがありますし、マスクの代わりになるものもありますから、耳にひもをかけるタイプのマスクをしていない方もいらっしゃるとは思いますが。)

 

そして、次のことにも気がつきました。

(私はふだんメガネをかけていませんが、パソコンに向かっているときはかけています。そこで、)

「私は、顔の両側に耳があって、真ん中に鼻があるからメガネを

かけられるのだ!」と。

 

耳の仕事は「聞く」ことであり、

鼻の仕事は「嗅ぐ」ことだと思います。

このほかにも、耳にはからだのバランスを保つはたらきや、

鼻には呼吸のはたらきなどがあると思います。

 

私は一応、これらの耳や鼻の仕事・はたらきも、

それぞれの位置も、存じ上げておりましたが、

今まで気づかずにいた耳や鼻のはたらきに気がつき、

「よく顔の両側に耳があって、真ん中に鼻があったものだなぁ」と、

つくづく感心してしまいました。

 

もちろん、マスクやメガネは耳や鼻の位置がわかっていて、

それに基づいて生み出されたものだと思います。

しかし、いずれにしても、耳や鼻と、マスクやメガネの、

素晴らしいコラボレーションだと思います!

 

そしてさらに、曹洞宗の開祖・道元禅師の、

ある言葉を思い出しました。

これは、『道元曹洞宗がわかる本』P13から引用して、

ご紹介させていただきたいと思います。

求法の旅を終えて宋(中国)から帰国した際の道元禅師の言葉です。

 

「私は宋の国から何も土産を持たず、空手(くうしゅ)で故郷に帰ってきた。ただ、目が横に、鼻が縦に付いていることが分かった。

 

道元禅師のこの言葉は、

何か持ち帰らなければならないような「特別な仏法(仏の教え)」は

なかった、

「ただ、あたりまえの素晴らしさを知り得た」ということであり、

それはつまり、「すべてを自分のものにして持ち帰ってきた」

ということなのだと解説にあります(前掲書P26,27より抜粋)。

 

私はかつて、毎日マスクをして、メガネをかける度に、

「せめてマスクをするかメガネをかけるかどちらかにさせて」

と思いながら過ごしていました。

 

しかし、どちらかではなく、どちらも可能にしてくれたのは

「耳と鼻」でした。「耳と鼻のおかげ」でした。

「私にはすでに、なんてありがたいことが起きていたのだろう!」

という喜びを感じました。

 

道元禅師は、目と鼻の位置についておっしゃっていて、

私は、耳と鼻の位置について申し上げ、

取り上げている点は少し異なりますが、

おそらくどこか一箇所に気づきがあると、

自分の身体の一つひとつに気持ちが向いて、

「口はここにあるんだ!手はここにあるんだ!」

というふうに、あらゆる部位の位置を再認識して、

あらゆる部位に感謝の念がわいてくるようになる気がいたします。

 

因みに、道元禅師は「身心脱落(しんじんだつらく)」

というさとりを得た方です。

それは、「身も心も一切の束縛から解き放たれている」

というものです。

 

『禅語百選』という本には(P268)、

「身心脱落」の「脱落の脱は解脱(げだつ)の意味です。すべての束縛から離脱すること。落は洒落(しゃらく)の意味です。少しも沈滞するところなく、身心ともにせいせいした、すかっとした境地です。」

という説明が載っています。

 

私は「身心脱落」という文字を見ると、

その力の抜けた感じにあこがれのようなものを感じ、

「私も力を抜こう」という気持ちになります。

 

おそらく、「身心脱落」には、

にまとった疲れや力みをとすこと」

という意味もあるのではないだろうか、という気がしております。

 

私は、疲れた時には自然と仏教の本に手がのびます。

私にとって、仏教の本や教えは疲労が回復するからだと思います。

 

昨今の世の中では、多くの方が知らないうちに、

気を張っていたり、肩に力が入っていたりすると思います。

悩み込んで心が重くなり、顔が下を向いていて、

足取りが重くなっている方もいらっしゃると思います。

 

そのような方には、ぜひ、“一時でも”

「何にもとらわれない」気持ちになってみて

 =何にもとらわれない人を演じてみて、

「何もかも忘れた」気持ちになってみて、

 =何かも忘れた人を演じてみて、

あるいは、「無心になれるほどの何かをしながら」

というのを加えて、

にまとった疲れや力みをとす」ことを

試していただきたいです。

 

長い人生の中で、このような時間はきっと必要だと思います。

 

もちろん、再び現実を見れば、また疲れが出てくると思います。

 

そしてもちろん、現実を見て生きていかなければならないのが、

人間なのだと思います。

 

だからこそ、

にまとった疲れや力みをとす」ことを

コツコツと日々試していただいて、

お疲れになっていた方々に自然な力がわいてきて、

気持ちに少しでも余裕が出てくること、

そして、少しでも身軽になったところから、

何度でも再スタートができることを、私は望んでいます。

 

また、身や心の疲れや力みを脱ぎ落とす作業に慣れた頃、

目指していたわけでもないのに、

「身心脱落」という「さとり」を体得していた、

ということになっているかもしれません。

 

そして、ぜひ、申し添えておきたいことがあります。

 

私が「耳や鼻の位置とそのはたらき」に気づくことができたのは、

マスク着用にすっかり慣れたからだと思っております。

慣れたことで意識しなければならないことが一つ減った、

つまり、気持ちに余裕ができたからこそだと思っております。

 

気持ちに余裕ができるわけですから、

“慣れ”には、良い面もあると思っております。

 

しかしながら、マスクのままではいけないと思っております。

「マスクをせずに過ごせる世の中に戻ること」を

私は望んでいます。

 

私は、耳も鼻も目も口も、自分の顔のどこにあるかわかりました。

あたりまえの素晴らしさ」は、わかりました。

ですので、次に「ありのままの素晴らしさ」を改めてわかりたい、

と思っております。

 

道元禅師は、

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

という和歌を詠まれました(『道元曹洞宗がわかる本』P15)。

この和歌は、

「春に花が咲く。夏に不如帰(ほととぎす)が鳴く。秋に月が輝く。冬に雪が降る……ありのままを感受することができたなら、それは真実を受け取ったということ。その時、心は何のわだかまりも捉われもなく澄みきっている。「涼しかりけり」とは、そんな澄みきった心のことです」。

と説かれています(『糧になる禅語』P112,113)。

 

私は、春夏秋冬のありのままの素晴らしさを、その空気を、

マスクをせずに感受することができる日の訪れを望み、

待っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

道元曹洞宗がわかる本』大法輪閣編集部

 道元と曹洞宗がわかる本

『禅語百選』松原泰道 祥伝社

 禅語百選――人生の杖ことば、いのちの言葉(祥伝社新書250)

『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』佐藤隆定 国書刊行会

 糧になる禅語 いまを充実させる生き方

『早わかり!道元曹洞宗中野東禅 三笠書房

 図解 早わかり! 道元と曹洞宗:一行三昧──ムダに考えない。ただ坐る

 

※次回の記事更新は「11月」を予定しております。

 更新にお気づきいただけましたら、

 そして、皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 幸いに存じます。