「師の握りこぶしはしない」ということについて。
大雨による被害に遭われました皆様に、お見舞いを申し上げます。
テレビに目を向ける度に、死者数・安否不明者数が増え、
山とも川とも街とも言えない被害の状況が映し出される映像に、
思わず目を伏せてしまいます。
そして再び目を開いても、
命がけで命を救おうとする方々の姿に、
やはり、目を伏せてしまいます。
今、そこにいる方々が、
私が直視することができないほどの苦しみの中にいる、
ということだと思います。
「どうかこれ以上のことが起きませんように」と、
たくさんの方々が願っていることと思います。
その願いが現実となってほしいです。
そして、本日の記事、
『「師の握りこぶしはしない」ということについて。』は、
先月、居候の光さん(id:isourounomitu)から頂いた
ある言葉をきっかけに、既に次の記事にしようと考えておりました。
〈居候の光さん、どうもありがとうございました。〉
ゆっくり(記事を)作成するつもりでおりましたが、
この度の大雨の被害に遭う中で、
懸命に救助活動を行う方々、悲しみの中で耐える方々、
ただただ目の前のことに取り組み続ける方々を見て、
これまで思っていたことに、さらに加わる思いが生じ、
できるだけ早く言葉にしたい、という心境になり、
本日の記事にさせていただきました。
「師の握りこぶし」は、
「師が惜しんで自分の知っていることを隠し、弟子に教えないこと」
を意味するそうで、
古代のインドで、たとえとして用いられていたようです。
(『もう一度学びたいブッダの教え』田上太秀 西東社P109参照)
これまで仏教の授業を受けたり、書物を読んだりする中で、
私は、仏教では「師とは、友のことである」と考えているのだと、
何度も感じてきました。
(因みに仏教では、
自分をよい方向へ導く友を「善知識(ぜんちしき)」と言い、
自分を悪い方向へ導く友を「悪知識(あくちしき)」と言いますが、
「善知識」を「師=友、友=師」と考えることは自然だと思いますが、
「悪知識」については、「反面教師」として捉える場合には「師」、
と呼べるのだろうと私は思っております。)
そして、次のようなお話があります。
仏教の開祖である釈尊(しゃくそん)が、弟子のアーナンダさんに、
「わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。……何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。」
一般的に「師」は「先生」と呼ばれる方のことではありますが、
私は、この「師の握りこぶし」における「師」というのは、
ご職業や、ふだん「先生」と呼ばれているかどうかは関係がない、
と思っております。
例えば、自分の地元で、旅人にある場所の行き方を尋ねられた時、
(その行き方を自分は知っているけれど、旅人は知らないわけで、)
知っている自分としては、旅人にその場所に必ず到達してほしくて、
「できるかぎりわかりやすく、お伝えしたい」
という方が多くいらっしゃるのではないかと思います。
この、自分の知っていることを、
「できるかぎりわかりやすく、お伝えしたい」というのは、
=「師の握りこぶしをすることなく、精一杯伝え尽くしたい」
ということである、と私は思っています。
ですので、「自分なりに精一杯伝え尽くす人」は、
「握りこぶしはしない師」なのだと、私は思っています。
つまり、「師の握りこぶしはしない人」とは、
ご自分の立場で、
「力を出し尽くす人」「力の出し惜しみをしない人」
のことを言う、と私は解釈しています。
また、釈尊は弟子たちに向かって、次のようにおっしゃったそうです。
……教法につき、僧伽(そうぎゃ)につき、もしくは、実践の方法について、疑問を残しているものがあるかも知れない。もし、そうだったら、いま質問するがよい。あとになって、あの時わたしは師のまえにいたのに問うことができなかったと、悔いるようなことがあってはならない。
(それでも皆が黙っているので、さらに釈尊は、)
なんじらは、わたしをあがめるのゆえに問わないのかもしれないが、それではいけない。友人が友人にたずねるような気もちで質問するがよい。
(『仏教百話』増谷文雄 筑摩書房 P168から引用)
このようなお話しからすると、釈尊は、
質問をする人も「友人」、それに答える人も「友人」、
それは、お互いに警戒心のない、気持ちの通じ合える「友人」、
という考えをされていたのだと思います。
ですので、仏教が「師とは、友のことである」と言っている、
と解釈していいと思っています。
少々お話が逸れるようではありますが、私は日常において、
「(自分が)うまくできなかった」ということも、
「(事が)うまくいかなかった」ということもありますが、
私は、うまくできなかった・うまくいかなかった初のケースでは、
「とことん考える」ということをしたくなります。
時に、「必ず前向きになること」を前提に「とことん落ち込む」
ということもします。
考えて、考えて、考えて……
落ち込んだところから前進するための何かを見つけたい、
と思っています。
そしてその昔、落ち込んだまま考え続けていたある時、
「あの時、それを成し遂げるだけの力が私にはなかったけれど、
力の出し惜しみは一切しなかった」
ということに気づいたことがありました。
このことに気づいたときから、
「力の出し惜しみはしない」ということが、
たとえ、結果が芳しいものでなかったとしても、
「その後の自分を支える」ことになる、
と思うようになりました。
過去に、「あの時、力の出し惜しみをしてしまった」
ということは、私にももちろんながら、あります。
このような私が「今」できることと言えば、
「今後は、力の出し惜しみをするのはやめよう」
と「決意」することだと思います。
「決意」すれば、「今、力の出し惜しみをしなかった」ことになる、
(「決意」を避けたら、「今、力の出し惜しみをした」ことになる)
と思います。
できればふだんから「力の出し惜しみはしない」ことを心掛け、
いつでも「あの時、精一杯やったじゃないか」と自分に言えて、
不必要な気分の落ち込みに自分の気持ちを費やすことがない、
という状態になるといい、と思っています。
また、念のために申し添えますが、
よかれと思って力を抜くとか、
力配分を考えて、ここは力を抑えておくとか、
どうしても今はがんばれないんだとか、
そういったことは力の出し惜しみとは違うと思っております。
まずは、
「その時の自分の力量」と「自分の取った行動」が見合っていたか、
が大事なのではないかと思います。
また、「力の出し惜しみはしない」という姿勢は、
接する相手や周囲・世間に対して、
「失礼な態度にあたることがない」
むしろ、「双方にとって好ましい」と私は思っています。
そして私は、「師とは、友のことである」と思っていますので、
「師の握りこぶしはしない」というのは、
「私はあなたに力の出し惜しみはしない」ということであり、
それは、「あなたの友でありたい!」ということである、
と思っています。
問う人も、それに応答する人も、
SOSを発信する人も、それを見つける人も、
時に沈黙でメッセージを送る人も、それを受け取る人も、
つらい思いを共有したいと思う人も、励ましたいと思う人も、
「力の出し惜しみをすることなく、自分のできることをし尽くしたい」
と思う人たちは皆、「あなたと友のようにつながりたい!」
と思っているのだと私は思います。
私は、被災地で助け合う方々の姿、
自分のできることをし尽くそうとする方々の姿、
そして、耐える方々の姿にも、
私の思う「師の握りこぶしはしない人の姿」が重なりました。
私はこの度の豪雨の影響を受けなかった地域(千葉県)に
住んでおります。
被災地のこれからの暑さ、
せめてそれだけでも代わりにお引き受けできたなら、
という思いでおります。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
参考・引用文献
『仏教百話』増谷文雄 筑摩書房