世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「好き」という気持ちについて。

久しぶりに記事を更新させていただきます。

 

前回の記事を書いてから2箇月以上が過ぎ、

もうすぐ4月を迎えますが、

本年5月1日に皇太子さまが新天皇に即位され、

それに伴って始まる新元号が公表される4月1日が

近づいてきました。

 

そのような中で、私の脳裏には、

ご結婚のお話しが延期となっている眞子さまのことが

思い浮かんでおります。

 

先日、大学をご卒業になった佳子さまが、

眞子さまのご結婚に関して、

「結婚においては当人の気持ちが重要である」

とおっしゃったと聞きます。

 

私も、佳子さまと同じように思っております。

 

眞子さまに限らず、どなたがご結婚されるにしても、

その人の「立場」も大事なことであるとは思います。

他にも大事なことはたくさんあると思います。

 

しかし、結婚における「当人の気持ち」は、

最も重要であり、欠かせないものであると思います。

 

そして私は、眞子さまのお気持ちを思いながら、

但し、眞子さまのことに限ったことではなく、一般論として、

結婚における「当人の気持ち」のはじまりの部分にあるような、

好きな人に出会ってから生まれる「好き」という気持ちについて、

本日、述べてみたいと思いました。

 

また、先に申し上げておこうと思うのですが、

よく、「好き」と「愛する」は違うと聞きます。

私も一言で言えば「違う」と思いますが、

厳密に言えば、(「好き」と「愛する」には)

「重なる部分」と「重ならない部分」がある、

と思っています。

 

このような「好き」と「愛する」の違いについての私の考えは、

本日の記事では割愛させていただきますので、

単純に、純粋に、人を好きになった時のことを思い浮かべて、

当記事をお読みいただけたらと思います。

 

「好き」という気持ちは、家族、友情、恋愛など……

いろいろな場面の中で生まれてくる感情だと思います。

 

そして以前、恋愛における場面で、

「別れた彼・彼女を、見返すんだ」とか、

「私を振ったことを後悔させてやるんだ」などと

おっしゃっている方を見かけたことがありました。

 

私は、この考え方には賛同しない立場です。

 

「もう一度、振り向いてもらいたい」と思って努力することは、

場合によってはいいとは思いますが、

しかし、「見返すため」「後悔させるため」という理由であったり、

自分を受け入れてもらえなかったことへの「復讐」がただよう時、

私は、その努力を美しいものとして感じることはないと思います。

 

もし、「すてきな女性になろう」と思うなら、

「誰かを見返すため」などの理由ではなく、

「自分がそうなりたいから」という理由で十分だと思いますし、

そのほうが、同じ人にもう一度振り向いてもらうにしても、

次の恋愛においても、自分らしく楽しく過ごせるように思います。

 

私は、人を思う気持ちが「美しい」のは「純粋」なものだから、

だと思っています。

 

ですので、「純粋」に誰かを「好き」と思っている時、

その人は「美しい」のだと思います。

 

因みに、私がここで申し上げている「純粋」というのは、

もちろんながら無我夢中なものでも、自己中心的なものでもなく、

むしろ、「好きな人ができたことで、周囲の人をも思いやれる」

というものを指しています。

 

「好きな人ができたことで、周囲の人をも思いやれる」ことは、

人を思う気持ちが純粋であるときの自然現象だと思っております。

 

また、「好き」という気持ちに、

「諦める・諦めない」という発想は「ない」と思っています。

 

「交際したい」となれば、相手の気持ちがかかわってくるので、

交際できないこともあり、諦めるしかないこともあると思います。

 

しかし、「好き」という気持ちは、本来、

交際できるかどうかに関係なく芽生えた思いであって、

状況がゆるしてくれても、ゆるしてくれなくてもそれは関係がなく、

時には、相手が自分のことを好きでなくても募っていくことさえある、

「湧き上がってくる気持ち」のことだと私は思います。

 

優しい人を好きになったり、おもしろい人を好きになったり、

寡黙な人を好きになったり、風変わりな人を好きになったり、

人を好きになる理由もきっかけも人それぞれだと思いますが、

交際したい気持ちが芽生えてくるのは自然なことだと思います。

 

ただ、もし、交際を申し込んで断られたことや、

何らかの問題で交際がかなわなかったときに、

とたんに「好きでなくなる」ならば、

大して好きではなかったのではないか、

本当は好きではなかったのではないか、

と私は思います。

もっと言ってしまえば、

自分の退屈や寂しさを紛らわすために恋でもしよう、

と考えていたのではないかと勘繰ってしまいます。

 

「この人の、こういうところが好き」という、

好きなことに理由があるのは自然なことだと思いますが、

「好き」という気持ちに、「うまくいったら」というような、

「条件」のようなものが付いていたら、

それは「純粋」な「好き」ではないと思います。

 

「好き」という恋心は、

退屈や寂しさを紛らわすためにするものではなくて、

自然に魅かれていって「恋しい人に抱くもの」だと思います。

 

もちろん、好きな人と交際できても、できなくても、

その後、何かを理由に気持ちが変わっていくこともあると思います。

 

その気持ちが移り変わって、新たに生まれてくる気持ちも、

「純粋」なものであるならば「美しい」ものだと私は思います。

もし、「これから私はこうしたいと思う、こうしよう」という、

明るい心の芽生えがあるならば、なおのこと「美しい」と思います。

 

もちろん、「ずっと私の気持ちは変わりません」というのも、

それが自然な思いならば、「美しい」と思います。

 

また、つらいことがあって、かげで泣いていることがあっても、

公の場で自分の「立場」を忘れない立ち居振る舞いができる方は、

心が「清らか」なのだと思います。

 

この「清らかさ」は、

「純粋に人を思う気持ち」のある方から感じることができるもの

なのではないかと思います。

 

私は、眞子さまに「純粋に人を思う気持ち」の「美しさ」と、

心の「清らかさ」を感じております。

 

「姉の一個人としての希望がかなう形になってほしい」と、

「純粋にお姉さまを思う気持ち」を伝えてくださった佳子さまも、

心の「清らか」な方だと思います。

 

眞子さまの希望がかなうことを、

「純粋に人を思う気持ち」のある方の願いがかなうことを、

私も心から望んでおります。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

※次回の記事更新は「5月」を予定しております。

 皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけたら幸いに存じます。