世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「私らしく」「あなたらしく」生きることについて。

※本日の記事は、約4,100字になっております。

 皆様のご都合のよろしい時にお読みいただけたら幸いです。

 

時々、「あなたはあなたのままでいい」という言葉を見聞きします。

これは、「あなたはあなたらしくあればいい」という意味である、

と私は解釈しています。

 

但し、この言葉(「あなたはあなたのままでいい」)を口にする際は、

その時、相手に、どのような意味で解釈され得るかを考えて、

慎重にするべきだと思っております。

 

つまり、「あなたはあなたのままでいい」と言わないほうがいい、

という場合もあると思っています。

 

私が「あなたはあなたのままでいい」と言うか、言わないか、

大まかな例ですが、3つ挙げさせていただきます。

(但し、“言う”というのは、必ず言うということではなく、

私が心の中で「あなたはあなたのままでいいと“思う”」と思っている

という場合を含みますので、ご了承くださいませ。)

 

①例えば、意地悪をし続けているような人に対して、

「あなたはあなたのままでいい」と言った場合に、

「あなたの行為をそのまま続けていいと言われた」というような、

相手が誤った解釈をする可能性があるときは言わない

 

②「私はこれからこういう人になっていきたい」とか、

「自分のよくないところに気づいたら、変えていこうと思う」とか、

そういう向上心が心に組み込まれている人には言う

 

③「あなたはあなたのままでいい」の「あなた」を勘違いしている、

つまり、その人が自分(の性質)を誤って認識しているかもしれない、

と思うときは言わない

(私の勘違いという可能性もありますが、念のため言わない)

 

以上の3つのうち、①に関して、

私の思うことを少々付け加えたいと思います。

 

意地悪をしている人が、

それは悪い事だとわかっていたり、悪い事をしている自覚がある場合、

「あなたはあなたのままでいい」と言ってくる人を“信用しない”

と私は思います。

 

悪い事をしている自覚があるような人は、

「あなたは変わったほうがいい」と言ってくれた人を、

“信用する”ように思います。

 

ただ、もちろん、「あなたは変わったほうがいい」という言葉も、

「あなたはあなたのままでいい」という言葉と同じくらい、

慎重に扱うべき言葉であると思います。

 

そして実は、当記事で、私が特に述べたいと思っているのは、

③に関することです。

ですので、ここからは③でいうところの「あなた」について、

述べて参ります。

 

「あなたはあなたのままでいい」という言葉の意味を、

「あなたはあなたらしくあればいい」と解釈していて、

それに向かって努力していても、

自分自身の性質を誤認している(本当の自分を捉えていない)ならば、

その努力は「あなたがあなたらしくある」ことにはつながっていない、

と思います。

 

この「あなたらしく」(または「私らしく」)について、

私が非常にわかりやすいと思った一つの例が、

私が愛読している加藤諦三先生(早稲田大学名誉教授)の

『心の資産を高める生き方』という本にあります(P78.79)ので

少々長い引用ですが、ご紹介させてください。 

 うつ病者は何か悪いことがあると自分が原因であると思う。

 それは自分の好きなことをして生きてこなかったからである。

 うつ病になったその人はもともとネコであった。それなのに周囲から「イヌ」であることを期待され、「イヌ」として扱われた。

 すると大人になると自分がイヌとして扱う人のほうが納得がいくようになる。

 もともとがネコなのに、イヌの真似をして、なんとかイヌの役割を果たしているのだから、それはすごいことなのである。

 とてつもなく優秀なネコである。

 これが非生産的いい人である。

 しかしもともとはネコなのだからどんなに頑張っても「弱いイヌ」である。そのネコは苦労して頑張って「弱いイヌ」になった。

 非生産的いい人というのは、頑張っているのだけれども自分の潜在的能力を発揮していない。

 つまり非生産的いい人はネコなのに、努力して「自分はダメなイヌ」と思い込んでいる人たちなのである。

 もう一度言う。じつは彼らはとてつもなく「優秀なネコ」なのである。

 ネコであることに気がつけば社会のなかに居場所はある。しかしイヌと思っているからどこにも居場所がない。

以上の引用箇所には、

自分は「ネコ」なのに、「イヌ」であると思い込んでいて、

だから「イヌならではの努力を重ねてしまう」のであるが、

しかし、一向に努力が実るはずもなく、疲労ばかりしてしまう、

ということが書かれているのだと思います。

 

また、あなたを「イヌ」と思い込んでいる周囲が、

「あなた」に、「あなた(イヌ)らしくね」と声をかけ、

「イヌ」としての意識を強めてしまうこともあるかもしれません。

 

もし、イヌとして扱われて、心から嬉しい!と思うならば、

あなたはきっと「イヌ」なのでしょう。

 

しかし、イヌとして扱われて、しんどい!苦しい!と思うならば、

あなたはきっと「イヌではない」のだと思います。

 

もし、自分の現状がしんどい!苦しい!ものと感ずるならば、

何よりも先に、

自分が「イヌ」なのか、「ネコ」なのか、「何者」か確認する、

または、判明させる必要があると思います。

 

「自分が何者か」という中で判明させたいのは、

「どのような性質をしているのか」であり、

それがわかって初めて「どのような努力をしたらいいのか」がわかり、

その努力の積み重ねが「あなたらしさ」につながるのだと思います。

 

私は、「自分が何者か(どのような性質をしているのか)」は、

“本当に苦しい”という場面をきっかけにして問いが始まり、

“本当に気持ちがいい”と思う場面の中でわかってくるのではないか、

と考えています。

 

(もし、嬉しい!苦しい!という感覚が鈍くなっているのだとしても)

今まで「ワン!」と言ってきた方が、本当はネコであるならば、

試しに「ニャン!」と言ってみてた時、

「なんて気持ちがいいのだろう!」と思う気がいたします。

 

「ニャン!」でもしっくりこないなら、

「チュンチュン!」とか、「キッキッ!」とか、「ガオー!」とか、

自分が今まで“したことのない発声”をしてみたり、

自分が今まで“したことのない動き”をしてみたら、

「この声の高さは楽だ~」とか、「この姿勢は楽だ~」とか、

きっと、「なんて気持ちがいいのだろう!」と思うところが

見つかるのではないかと思います。

 

もし、あなたが「キッキッ!」という発声が気持ちよかったら、

「あなたっておサルさんなんだぁ~!」と私は思うでしょう!(^^)

 

ここでもう一つ、加藤諦三先生が、

『自分のうけいれ方』という本の中で書かれていること(P13)を

ご紹介させてください。 

 サルが泳ぐことを期待されたら、「私はサルです。魚ではありません」と言えばいい。そう言える人は悩んでいない。

 泳げる魚は、木に登れるサルよりも価値があると錯覚しているから、「私はそういう人間ではありません」と言えないのである。

 魚は水に気がつかない。同じように人は「ありのままの自分」に価値があるということに気がつかない。

ここには、

魚は木に登ろうとするより、ますます気持ちよく泳げばいいし、

サルは泳ごうとするより、ますます気持ちよく木登りすればいい、

ということが書かれているのだと思います。

 

ただ、(下線を引かせていただきました)最後の一文、

「魚は水に気がつかない。同じように人は「ありのままの自分」に価値があるということに気がつかない。」

という箇所を読むと、

「ありのままの自分に価値がある」ということに気がつくのは、

大変難しい作業であると思えます。

私自身、そうは思いたいけれど「ピンとこない」、

「そう言える根拠が知りたい」と思っていた時期があります。

 

「ありのままの自分に価値がある」ということに「根拠」を求める方の

「納得」にまで至るかどうかはわかりませんが、

加藤諦三先生の本を読みつつ、考えて、考えて、

私が得た答えを、ここに申し上げてみたいと思います。

 

誰でも何らかの性質をもって生まれてきている。

このことからすれば、私にも何らかの性質があると言える。

私のもって生まれた性質(=本当の私)がわかれば、

その性質に則って生きるのが“私らしい”ということであり、

その性質を活かして生きると“私が活き活き”するのであり、

そもそも、「活かせばいい何かをもって生まれてきている」

ということは、「ありのままの自分に価値がある」と言える。

 

「私らしくする」ということがうまくいかないことがあるのは、

「本当の私」というものを捉えていなかったから、だと思います。

しかし、自分が何者か(本当の私)がわかったら、

あとは「自分らしくすればいいだけ」……

なのだと思いますが、それもなかなか難しいのが現状だと思います。

 

もし、長い年月をかけて「自分ではないもの」をやってきて、

そこで身につけてしまった習慣を変えようとすれば、

大変なエネルギーを必要とすると思います。

 

ただ、私は「何か苦しい~」と思ったら、自分に、

「もしかして、私らしくないことをしていたのかな?」と問うて、

その状態を続けることの必要性や、

自分の心身に芳しくない影響を受けないかを考えながら、

改めて、意識して、「私らしく」に取り組みます。

 

魚のつもりで泳いでみたり、

サルのつもりで木に登ってみたりしたことがあって、

いろいろなことをして、自分の得手不得手がわかるだけでも、

以前と比べて生きていきやすくなる、ということはあると思います。

 

ここで、最後にもう一つだけ、加藤諦三先生が、

『不安のしずめ方』という本の中で書かれていること(P72)を

ご紹介させてください。 

  サルがライオンを怖いと思ったら、ライオンのほうは自分の好き勝手なことをする。

 怖いと思ったサルは、ライオンを喜ばすことをする。

 生きることの中心が相手になってくる。

 サルがライオンを好きなら、「サルはこんなことするんだよ」とライオンに言う。

 自分が中心になる。

「サルはこんなことするんだよ」は、

私が大好きなフレーズなので、太字にしました。(^^)

 

もって生まれた性質で「すること」は、

その人の「得意分野」だと思います。

 

「本当の私=自分の性質」を知って、

「私らしく生きる=得意分野を活かす」と、

「私はこんなことをするんだよ!」と、

人を楽しませながら、自分も楽しい!という人生になる、

と私は思っています。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『心の資産を高める生き方』加藤諦三 KKベストセラーズ

 心の資産を高める生き方 (ベスト新書)

『自分のうけいれ方』加藤諦三 PHP研究所

 自分のうけいれ方(愛蔵版)

『不安のしずめ方』加藤諦三 PHP研究所

 不安のしずめ方(愛蔵版)

「自由」について。

本日は、「自由」について、述べてみたいと思います。

 

明鏡国語辞典』によれば、「自由」とは、

「他から強制や命令をうけることなく、自分の思いどおりにできること。」

と書いてありました。

 

強制や命令、また、義務や束縛など、その内容にもよりますが、

(その内容についてはさておき、)

私は、私自身については、

日常生活の中に“~しなければならない”というものがないと、

自分を律することができないと思っており、

「基本的には自由で、少々“~しなければならない”がある」

という状態が「ちょうどいい」と思っています。

 

また、(あくまでも、私自身の考えではありますが、)

何の束縛もない自由には、

時に、「寂しさ」を感じることがあります。

 

そして、この度、「自由」について述べようと思った時、

まず、思い浮かんだのは、「行雲流水(こううんりゅうすい)」

という禅語でした。

 

「行雲流水」について、

『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』という禅語の本には、

次のように書いてあります(P128)。

 修行僧の別名は雲水。この雲水という言葉、じつは「行雲流水」という禅語を二字に縮めたもの。……大空を行く雲、谷川を流れる水。一所に定住することなく、何ものにも縛られず、師を求めて自由自在に各地を行脚する修行僧の姿を、雲や水といった自然の運行に見立てているのです。 

私のほうで太字にさせていただいた箇所、

大空を行く雲、谷川を流れる水。一所に定住することなく

(=雲が行き、水が流れるように「一か所にとどまらない」)

という言葉には、

「一つの概念に縛られないこと」や、

「新たな感覚を拒まないこと」という意味が含まれていて、

さらに、好きなだけ「立ち止まって」

納得のうえで、「大らかに」次の一歩を踏み出すという意味も、

きっと含まれているだろうと、私は解釈しています。

 

私が、「立ち止まって」「大らかに」と付け加えているのは、

時に、「自分をさえぎらず、かつ、他との調和もさえぎらない」

とするにはどうしたらいいかを「立ち止まって」考えなければ

わからない、ということもあると思うからであり、

考えた結果踏み出す一歩は、「大らか」だろうと思うからです。

 

そして、次のページには、次のように書いてあります(P129)。 

 自由とは、自らに由(よ)ること。行動の基準を他に由るのではなく、自らの精神に由るということ。欲に由るのでもありません。精神に由ることで、正しい行動ができる状態に自分を保つ。それが自由であることの本当の意味です。 

 やりたいことを好き勝手にやることは、自由ではない。それはなぜか。何が正しいかを考え、正しく行動できるから自由であるのに、欲に突き動かされるのでは、心は不自由そのものだからです。精神がまったく自由になれていません。 

欲に突き動かされたり、怒りに支配されてしまったりして、

自らをコントロールできなくなれば、とらわれの身であり、

心が「不自由」な状態であると、私も思います。

 

(また、このような、心が「不自由」な状態である人から影響を受け、

こちらも、とらわれの身になってしまうこともあるように思います。)

 

そして、「自らの精神に由る」とか、「精神が自由」とか、

そういった言葉から、さらに私が思い浮かぶのは、

「良心」です。

 

私は、「良心」というのは、「自分に一番身近な神様である」

と聞いたことがあります。

(これは、ある本に書いてあったのですが、

どの本か思い出せません。申し訳ございません。)

 

これまで生きていて、欲に突き動かされそうになったり、

怒りに支配されたり、迷いを生じたりして、

苦しんだご経験がある方もいらっしゃると思いますが、

何かを欲し、怒り、迷うという場面で「苦しむ」のは、

「良心」があることが理由、ということもあると私は思います。

(良心がなければ苦しまない、と私は思うのです。)

 

ただ、「良心に目を背けたことで良心が痛んだ」

という自分の心にさえ目を背けると、

ずっと心の不自由が続いて、

苦しさも続いてしまうように思います。

 

(躊躇の後、)良心にしたがって取った行動に、

「これが、本当に私がしたい行動だった」と

“満足”したご経験がある方もいらっしゃると思います。

これが、まさに、「自由」という状態だと思います。

 

いつも、「自分の良心にしたがう」ことができれば、

心の不自由がなくなるのではないか、と私は思います。

 

「自分の良心にしたがう」と言っても、

「良心」は、その人の心の中に、

その人なりに持っているものだと思いますので、

決して、強制や命令、義務や束縛などではない、

と私は思っています。

 

ここまで述べてきたことをもって、

私の思う「自由」について、できるだけ短く申し上げますと、

「良心という、自分に一番身近な神様に自ら好んでしたがいながら、

雲が行き、水が流れるように、心を縛ることをしないから、

(例えば、「立ち止まる」にも「立ち止まらない」にもとらわれず、

また、自分をさえぎらず、かつ、他との調和もさえぎらないから、)

“満足”である」

というものです。

 

私はまだ、「自由」を手に入れてはおりません。

これからです!

 

皆様にも、皆様の思う「自由」があると思います。

 

皆様が、“満足”を感じる「自由」で日々お過ごしになることを、

願っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『糧になる禅語 いまを充実させる生き方』佐藤隆定 国書刊行会

 糧になる禅語 いまを充実させる生き方