世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

世の中の一員として、願うこと。

 

大雨による被害に遭われました方々にお見舞いを申し上げます。

 

約3ヵ月半ぶりに記事を更新させていただきます。

この間、当ブログにお越しくださいました皆様、

そして、気にかけてくださいました皆様に、

深く、深く、感謝の念を抱いております。

どうもありがとうございます。

 

また、この度の記事は約4,400字になっております。

皆様のご都合のよろしい時にお読みいただけたら幸いです。

 

世の中を見ると、明るい話題もありますが、

痛ましい事件が多く起きているように思います。

 

多くの方々が明るい未来を望んでいるにもかかわらず、

防ごうと思えば防げたのではないかと思われる事件が起きると、

何とも言えない気持ちになります。

 

しかし、同時に、

「私たちは暗いムードや暗い気持ちに“負けてはいけない”」

という思いも、私の心の中に表れて参ります。

 

自分の気持ちを明るく保つことは、

自分の心身にも、生活にもよいことだと思いますが、

世の中の一人ひとりの気持ちや行動が反映されて、

この世の中ができているのではないかと考えると、

自分の気持ちが明るくあることは世の中のためにもなる、

と思えて参ります。

 

ですので、私は、まず、

「世の中の一人ひとりの方々の気持ちが明るくあること」

を望んでおります。

 

しかし、実社会の中では、自分の気持ちを保つこと、

しかも「明るく保つこと」が難しい場面を迎えることも、

あると思います。

 

世の中にいろいろな価値観をもった人たちがいる、

ということがわかっていたとしても、

もし、自分とあまりにも違う価値観の人たち囲まれてしまったら、

誰とも話したくないと思い、暗い気持ちになってしまうのは、

当然のことだと思います。

 

もちろんながら、私自身にも、

理不尽なことや好ましくない、つまらない事柄に心がひっかかり、

いつのまにか暗い気持ちになっていた……ということはあります。

 

そのような時、私の心を支えてくれる多くの言葉がありますが、

本日は、そのうちの一つをご紹介させていただこうと思います。

 

それは、私が愛読している『菜根譚』という本の中にあります。

 

因みに、ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

菜根譚』は一言で言えば「処世訓・処世術」の本です。

 

明鏡国語辞典』には、「処世(しょせい)」とは、

「社会の中で人々と交わりながら生活していくこと。」

と書いてありました。

 

また、『広辞苑』に、

「処世訓」とは、「処世の役に立つおしえ」のことであり、

「処世術」とは、「処世のための術策。世渡りの方法」と、

書いてありました。

 

私はある時まで、

「世渡りの方法」を意味する「処世術」という言葉が、

好きではありませんでした。

それは私が、「処世術」という言葉に、

「細工をして生きる」というようなイメージをもち、

勝手に好ましくない印象をもっていたからです。

 

しかし、『菜根譚』を読んで、

「何の工夫もせずに生きていけるわけはない」と思うようになり、

さらに、「処世術」という言葉に対して、

“自分で勝手にもったイメージにひっかかる”という、

ずいぶんつまらないことをしてきた、と思いました。

 

そして、これに気づくことができた時、

心を軽くしてもらえたように感じましたので、

私は、『菜根譚』に感謝しております。

 

それでは、私の心を支える言葉の一つを、

菜根譚』(今井宇三郎・岩波書店)から引用して、

ご紹介させていただきます(P270)。

(私が特に影響を受けた部分を太字にさせていただきます。) 

 俗世間を超越する方法は、この俗世間を渡る生活そのものの中にあるのであって、かならずしも世人とまじわりを絶って山林に隠れる必要はない。また、見性悟道の工夫は、この自己の本心をきわめ尽くすことそのことの中にあるのであって、かならずしも欲を絶ち心を死灰にする必要はない

 (念のため、書き下し文を載せさせていただきます。)

「出世の道は、即ち世を渉る(わたる)の中に在り、必ずしも人を絶ちて以て世を逃れず。了心の功は、即ち心を尽くすの内に在り、必ずしも欲を絶ちて以て心を灰にせず。)

 

時に、空気が合わないような、ザワザワしている街を出て、

ひとり山の中へ入っていって、心を静かに、穏やかに、

英気を養うのもいいと思います。

 

とりあえず、嫌なことなどからは一旦逃げるほうがいい、

ということもあると思いますし、

不必要にその場に居続けることは、しなくていいと思っています。

 

今居るこの場所に居続けるべきか、逃げるべきか、

迷うこともあると思いますが、

私は、“自分の心を大事にできる場所”を選んで移動するのも、

今居る場所を“自分の心を大事にできる場所に”変えていくのも、

いいと思います。

 

いずれにしても、

“自分に正直になれない場所は自分の居場所ではない”と思います。

ですので、そのような場所に長居はしないほうがいいと私は思います。

 

そのような考えに変わりはありませんが、

菜根譚』を読んでいる私は、

山の中へ入っていって、

そこに居れば、心を静かに、穏やかに居られるのだとしても、

心身を癒し、整えることができたら、山の中へ行ったきりにならずに、

人のいる街の中に戻って来るほうがよさそうだ、とも思っております。

 

そのほうが、(最期の時などに、)

「逃げてしまった」という感覚が残らない人生になる気もいたします。

 

但し、『菜根譚』の、

「俗世間を超越する方法は、

この俗世間を渡る生活そのものの中にある」

という言葉からすれば、

目の前の嫌なことから「逃げないからこそ“逃げられる”」

と言っているのだと思います。

 

私なりに、『菜根譚』のこの言葉の意味を解して、

勝手ではありますが言葉を換え、さらに言葉を加えて申し上げれば、

「逃げたい事柄から逃げたいならば、“逃げない”としたほうがいい」

「逃げている間は苦しい」

「逃げないと決めた時、初めて楽になる(気持ちが軽く明るくなる)」

「逃げないことで、その場に居ながら逃げることができる

(実質は“逃げ”ではなく、“解放”になる)」

といった感じになります。

 

さらに、『菜根譚』の「自己の本心をきわめ尽くすこと」、

そして、「かならずしも欲を絶ち心を死灰にする必要はない

という言葉を読んだ時から、私は、何かを嫌う気持ちがある時に、

「嫌いなものは嫌い!」という自分の気持ち認めることは、

自分の心を灰にしないことができるという、

かなり大事なことなのだろうと思うようになりました。

 

(実社会で「嫌いなものは嫌い!」とはっきりと表現することは、

よく考えてからにしたほうがいいと思いますが、)

自分のもつ感情の中で、「嫌い」というのは、認めると、

特に「自分の心を灰にしない」効果の高いもの、

ではないかと私は思っています。

 

もちろん、「好きなものは好き!」というものがあって、

それを偽らないことも、とても大事なことだと思います。

 

また、好きなことや楽しいことを思い浮かべると、

目の前のことは小さなこと、または、何でもないこと、

になっていく場合があると思います。

 

ですので、もし、好きなことや楽しいことがない、

という方がいらっしゃるならば、

私は、できることなら、嫌なことへの対処よりも、

好きなことや楽しいことを見つけることを“先に”する

といいのではないかなと思います。

 

「好きなものは好き!」「嫌いなものは嫌い!」ということが、

自分の中ではっきりできると、心が強くなるようにも思います。

 

また、私の場合、嫌なことがあっても、

ボールペンを丁寧に置くとか、お箸をきちんと揃えて置くとか、

カバンを投げるように置かないなど……

そいうときこそ、投げやりにならず、乱暴にならず、

「所作(動作)を丁寧にしよう」とすることで、

自分の心が落ち着いてくるように思っています。

 

そして、もし、

「多くの人がいる街の中に居ながら、ひとり山の中に居る」

というような心持ちになれれば、

やはり、目の前の嫌なことが小さなことになり、

または、(これまで嫌だったことが)気にならなくなり、

その場に居ながら「私は私!」というふうに、

生きていけるような気がいたします。

 

それは、どこに居ても自分の気持ちに正直でいられる、

また、自分の居場所を自分で設けることができる、

ということだと思います。

 

また、『菜根譚』には、

世の中を生きてゆくには、俗な人間と価値観を同じにしてはいけない。しかし、俗世間とまるで違ってもいけない。

 という言葉もあります(『1分間でわかる菜根譚』P51より)。

(念のため、書き下し文も載せさせていただきます)

「世に処しては、宜しく俗と同じかるべからず。また宜しく俗と異なるべからず……」『菜根譚』(今井宇三郎・岩波書店P205を参照)

 

俗な人間と価値観を同じにしてはいけない」という箇所を読むと、

やはり、「受け入れられないものは受け入れない」

「嫌いなものは嫌いでいい」ということでいいのだと思えて参ります。

 

ただ、「俗世間とまるで違ってもいけない

と『菜根譚』は言っています。

私は、この言葉については、

次のようなことがあてはまるのではないかと思っています。

 

当ブログでも何度か申し上げたことがございましたが、

「人は、まちがえない、ということができない」

と私は思っております。

 

もちろんながら、私もまちがえることがあるわけです。

 

「まちがえたことに気づいたら、素直に認め、訂正する」

ということを前提に、

「お互いさま」の世の中であると、私も助かります。

 

この「お互いさま」の気持ちが、

俗世間とまるで違ってもいけない」に通じているように、

私は思っています。

 

少々唐突かもしれませんが、なぜか調べたくなり、

広辞苑』で、「一喜一憂(いっきいちゆう)」を調べました。

「情況が変わるたびに喜んだり心配したりして落ち着かないこと」

と書いてありました。

 

そこで、私は思いました。

私は、世の中の一つひとつの事柄に、

「一緒に喜んだり、悲しんだり、心配したりしながら、

しかし、“落ち着いていたい”」と。そこを目指したいと。

 

また、ここに申し上げる“落ち着いていたい”には、

「世の中のおかしなことを受け入れるつもりはないけれど、

だからといって、排他するわけでもない」

というような意味も含んでおります。

 

私たちは皆、世の中の一員です。

 

私は、世の中の一員として、明るい気持ちで、

世の中の一人ひとりの方々の日々が

“明るく、心豊かで、落ち着いたものであること”

を願っております。

 

また、ただいま申し上げてきたことは私の場合です。

 

菜根譚』の言葉から、

皆様が明るい気持ちにつながる何かを感じることがありましたら、

幸いに存じます。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

菜根譚』今井宇三郎・岩波書店

 菜根譚 (岩波文庫)

『1分間でわかる菜根譚渡辺精一 三笠書房

 1分間でわかる「菜根譚」 (知的生きかた文庫)

 

※次回の記事更新は、「10月」を予定しております。

 皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 幸いに存じます。

禅語「拈華微笑(ねんげみしょう)」。

元号が「平成」から「令和」へ変わってから12日目を迎えました。

 

ゴールデンウィークもすでに終わり、

祝賀ムードが落ち着いてきたように思います。

 

しかし、「令和」という時代に対して何らかの期待をもった雰囲気は、

今も続いているように思います。

 

「(令和が)いい時代になるといいなと思います」

とおっしゃっている方を度々お見かけしましたが、

私もそのように思っております。

 

「平成」という時代は、世の中を見ても個人的にも内容が濃く、

この時代に居合わせ、この時代を経験させていただいたことは、

私自身にはよかったと思っております。

 

そして、「令和」という時代を迎える場面に居合わせたことも

よかったと思いました。

それは、「令和」と言っては微笑み、「令和」と聞いては微笑む……

人々のそのような様子に、

禅語の「拈華微笑(ねんげみしょう)」を感じたからです。

 

『ほっこり、やさしい禅語入門』(P75)という本に、

「拈華微笑」は、次のように説かれています。

 あるとき、説法の場でありがたいお話を聞こうと集まった弟子たちを前に、お釈迦さまは無言のまま優曇華うどんげ)の花を差し出しました。何のことか意味がわからずにいる弟子たちのなかで、唯一、迦葉(かしょう)という弟子だけはその意味をくみとり、ほほえみました。こうしてお釈迦さまの教えは迦葉に伝えられたといわれています。

※文中に「優曇華うどんげ)」という花の名前が出て参りますが、

 他の書物で「金波羅華(こんぱらげ)」と説いているものもあります

 (講談社の『無門関を読む』P72参照(著:秋月龍珉))。

 

さらに言葉を引用させていただきながら、短く申し上げてみますと、

「言葉を交わさずとも、一輪の花を差し出せば、ほほえみだけでお互いの心を伝え合うことができること」が、「拈華微笑」です。

 

また、『明鏡国語辞典』には、「拈華微笑」とは、

「仏教で、ことばでは説明できない仏法の真髄を心から心へと伝えること。また、一般に、ことばを用いずに心から心へと伝えること。以心伝心。」

というふうに書いてありました。

 

私が「令和」という元号を迎えた日本に「拈華微笑」を感じたのは、

「令和」を合言葉にして、人々が平和を願い、夢や希望を持ちながら、

「お互いに、いい時代になるといいよね!」

というメッセージを送り合い、受け取り合い、

あちらこちらに微笑んでいる方がいらっしゃって、

大変多くの方々の間に「以心伝心」があったことを感じて、

気持ちよかったからに違いありません。

 

「令和」を「合言葉」に人々が微笑み合うのは、

「令和」という花が「開花」して人々が微笑み合うのと同じこと、

と私は感じました。

 

「令和という花」と「人」の心が通い合い、

「人」と「人」の心が通い合う、

このような「拈華微笑」が日本という国で見られたことを、

私は大変嬉しく思いました。

 

ただ、「令和」という時代を迎え、笑顔の方を多く見かけたとはいえ、

気がかりなことがあって、「今は笑うことができない」という方も、

何らかの問題を抱えていて、「今はそれどころではない」という方も

いらっしゃると思っております。

 

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、

禅には「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があり、

これをごく簡単に申し上げてしまえば、

「さとりは、文字では伝わらず、心で伝える」

という考え方のことなのですが、

その前提がある中で、「禅語」の位置づけを考えますと、

「禅語」は、それを唱えた人からの「(さとりへの)誘い」

なのだろうと私は思います。

※因みに、「拈華微笑」は、

 中国永代の禅僧無門慧開(むもんえかい)和尚が編集した『無門関』

 という公安集の中にあるものです(『無門関を読む』P3参照)。

 

もし、そこに一輪の花があることに気づかないでいる方に、

「ねぇ、ちょっとこの花を見て!」というように声をかけることは、

「拈華微笑の世界への誘い」になると思います。

それは、

「お釈迦さまが一輪の花を差し出して、あなたが笑うのを待っている」

ことと同じだと思います。

 

また、「一輪の花が咲いていること」や、「その花の美しさ」に、

自ずと気づくこともあると思います。

 

「その花の美しさ」に自ずと気づくことができるのは、

その花が本当に「美しい」からだと私は思います。

その花自身の放つオーラのようなもののおかげで、

こちらが何をせずとも「美しい」ことを真に理解させてもらえる、

ということではないかと私は思うのです。

また、その美しさに人が癒されることがあるのは、

真に「美しい」ことは「優しい」ということでもあるから、

なのだろうと思います。

 

ですので、人は本来、

一輪の花を見つけたら、優しい気持ちになって微笑み、

もし、問題を抱え、気がかりなことがあっても、

そこにある一輪の花に気づけたなら、眺めたくなる、

しかも、優しい気持ちで眺めたくなって癒されていく、

ということがあるのだと私は思っています。

 

ところで、「令和」の二文字は、

日本最古の歌集『万葉集』の「梅花の歌」の序文にある、

「初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。」

の中から選ばれたことは、多くの方がご存知のことと思います。

 

実は、「令和」時代を迎える前に、

偶然、友人が私に梅の花の写真を送ってきてくれていました。

最初はうっとり見ていました。

しばらくして、梅の花が見ているほうを私も見たい気持ちになり、

さらに、その梅の花が見ている方向に“優しい未来”を感じました。f:id:morimariko:20190512224402j:plain

 

また、友人は、

「“思いのまま”という木があって、白梅なのに何故か所々ピンクのお花が…思いのまま、だからでしょうか? 美しかったです」

と言葉を添えてくれていました。f:id:morimariko:20190512224448j:plain

 

友人が、この梅の花の写真を撮ったこと、

友人が、この写真に、言葉を添えて私に送ってきてくれたこと、

ここに、友人から私への「拈華微笑の世界への誘い」があり、

私が、この梅の花の思いのままの“色”にうっとりして、

梅の花が見ている方向に“優しい未来”を感じたこと……

ここに、「梅の花」と「友人」と「私」の「拈華微笑」がありました。

 

今、私のこの記事をお読みくださっている方々の中に、

「私にもそういうことがありました!」という方も、

「私にもそういうことがしょっちゅうあります!」という方も、

いらっしゃるのではないかと思います。

 

自分を笑顔にしてくれる人がいることの幸せを感じながら、

今、笑顔ではない方が、いずれ必ず笑顔になることを信じながら、

たくさんの「心」と「心」が通い合い、

ますます「拈華微笑」で包まれていく世の中を思い浮かべることを、

私は今、楽しんでおります。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

『ほっこり、やさしい禅語入門』石飛博光 成美堂出版

ほっこり、やさしい禅語入門―心豊かな毎日をおくるための禅のことば

『無門関を読む』秋月龍珉 講談社

無門関を読む (講談社学術文庫)

 

※次回の記事更新は、約3箇月先の「8月」を予定しております。

 もし、更新にお気づきいただけましたら、

 そして、皆様のご都合がよろしい時にお読みいただけましたら、

 幸いに存じます。