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世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

私の、仏教が大好きな理由。

仏教(関連) 私事

私は仏教徒ではありませんが、

仏教が大好きです。

 

仏教の教えの中で、

私が大変気に入っておりますのは、

「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」

という教えです。

 

「自灯明・法灯明」は、

「自分をよりどころとし、正しい教えをよりどころとすること」

という意味で、

私は、自分の生き方の基本的な考え方として、

取り入れさせていただいております。

 

※「自灯明・法灯明」に関しましては、

 以前、記事にさせていただいております。

 皆様に許すお時間があり、お読みいただけたら幸いです。

morimariko.hatenablog.jp

 

このほかにも、私は、仏教の教えの多くに共感し、

お導きをいただいてきたと思っております。

 

しかし、私には、

仏教の教えのすべてに頷いているわけではない」

という本心があります。

 

また、私がこのような本心をもっていても、

仏教が、私から去って行ってしまったことはなく、

去って行きそうな気配すら感じたこともないまま、

今日を迎えております。

 

それで私は、本心を偽る必要もなく、

安心して、仏教を好きでいられます。

 

この私の気持ちをますます安心させてくださるようなお話が、

歎異抄(たんにしょう)』という本に書かれています。

 

※ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

 『歎異抄(たんにしょう)』は、

 浄土真宗の祖「親鸞聖人」の弟子である「唯円(ゆいえん)」が

 著したもので、東洋の聖書とも言われています。

 

この『歎異抄』の第九条に、

唯円が「念仏を唱えても喜ぶ気持ちが湧いてこないのはなぜか」

と本心を打ち明け、

それに対して、親鸞聖人が答える場面が出てきます。

 

(現代語訳でご紹介させていただきます。)

「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません。また、急いで浄土へまいりたいという心もおこりません。これはいったいどうしたことでしょうか」とたずねました。すると親鸞聖人は、「実はわたしも同じような疑問をいだいていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ思いをもっていたのですね」といわれて……(『歎異抄角川学芸出版P85) 

 

仏教徒であり、念仏者である親鸞聖人と唯円が、

「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません」

と言えてしまう、

こんなに「本心でかまわない」仏教が、

私は大好きなのです。

 

このあと、親鸞聖人は、唯円に、

喜べないのは煩悩のしわざであり、

阿弥陀さまは、そのようなわたしであることをはじめから知って

おられ……」

と答えていらっしゃいました。

 

この、唯円が本心を打ち明ける第九条よりも前の、

第一条に「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という言葉があります。

 

角川学芸出版の『歎異抄』P12には、

  摂取不捨とは、単に仏がおさめって見捨てないということではない。親鸞は『浄土和讃』の中で、仏に背をむけて逃げるものを、どこまでも追いかけて、ひとたびとらえると、決してはなさないことであるといっている。

と書かれています。

 

繰り返しますが、

「摂取不捨」とは、阿弥陀様が、

「仏に背をむけて逃げるものを、どこまでも追いかけて、

ひとたびとらえると、決してはなさないこと」

という意味だと書かれています。

 

阿弥陀さまは、

人間に深い煩悩があることを十分ご承知で、

人間とはそういうものであるからこそ「救いが必要」なのであり、

だから、「(救いを必要とする)すべての衆生を救う」

という誓願を立ててくださった方です。

 

人が、「この誓願は、煩悩深き自分のために立てられたものだ」

と深く頷き、

その人に、「念仏しよう」という思いが「自然に」湧きあがったなら、

それが、阿弥陀さまがその人を救うために、

「とらえて、決してはなさない」

という合図になるようです(と、私は解釈しています)。

 

私は、仏・阿弥陀さまの救いなくして、

今日の私はなかっただろう、と思っている私です。

 

しかし、仏教に出会い、念仏に出会い、

仏の慈悲に触れてもなお、

仏教の教えのすべてに頷いているわけではない」

とも思っている私です。

 

このような私に、

仏教が好き」という思いが一度も消えたことがないのは、

仏の「ひとたびとらえると、決してはなさない」

という慈悲・恩恵をいただいているからなのではないか、

と思っています。

 

私の、仏教が大好きな理由は、

この度申し上げたことがすべてではありませんが、

理由の中でも大きいものを述べさせていただきました。

 

私の、仏教が大好きな理由をもう一度、

箇条書きにさせていただきますと、次のようになります。

・本心でかまわない(むしろ、本心がいい)

・(どのような本心をもっていても)私から去って行かない

・背をむけて逃げる私をどこまでも追いかけて、とらえ、

 決してはなさないでくれる

 

因みに、私が仏教の教えで頷くことができない箇所というのは、

私が理解できないだけ、という可能性が大いにあり、

「まだ、結論が出ていない」ということでもあります。

 

ひっかかる点に、

「これはどういうことだろう?」

「そういうものかなぁ?」と、

これまで通り、問い続けたいと思っております。

 

そして、納得できたときは、

素直に頷きたいと思っております。

 

※「念仏」については、またの機会に記事にさせていただけたらと

 思っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

歎異抄千葉乗隆 角川学芸出版

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

「毎日」について。

心・考え方

今日は、私が思っている「毎日」について、

述べさせていただこうと思います。

 

時間を大事に思っている方々にとって、

「毎日」は、やはり、大事な日々だと思います。

 

私も、大事に思っております。

 

その毎日の中で、

火事のような緊急事態が発生した場合などに、

そこで発揮される、

日常では到底考えられないもの凄い力のことを

「火事場のバカ力」というと思います。

 

夢中になって、一生懸命になった時に、

不思議な力がはたらくということもあると思いますが、

「火事場のバカ力」は、

その人が「もともと持っている力」なのである、

とも聞きます。

 

この「火事場のバカ力」を毎日発揮してしまうと、

人は、非常に短命になるようです。

 

ということは、

人のからだは、日頃から力を蓄えておき、

いざという時に「火事場のバカ力」を発揮する、

という具合にバランスをとりながら、

自分の命を長命にしよう、

としているのだと思います。

 

ですので、例えば、

「今日はゆっくり過ごした」とか、

「今日は何もしなかった」とか、

そういう日があるのは、

「いざという時」にそなえて、

(自分の知らない間に)「力を蓄えている」

ということなのかもしれません。

 

それとは逆に、すでに何かを成し遂げて、

いっぱい力を使ったので、

「今、休んでいる」「力を取り戻している」

ということもあると思います。

 

また、思い通りに過ごせなかった日々を振り返って、

「私は怠けているだけなのではないか」

と自分に問うこともあると思います。

 

しかし、怠けるタイプの方が、

そういう問いかけをご自分になさるとは、

私は思いません。

 

また、例えば、

(いつかはわからないけれど)すごい力を発揮するであろう日や、

(いつなのかわかっている)すごい力を発揮したい日など、

そういう大事な日を、「出番の日」と呼んで、

その他の日は「出番に備えている日」と呼んでみると、

「出番に備えている日」が、

「出番に備えている」という役割を担った日として、

力を蓄えるための「大事な日」に思えて参ります。

 

ここで、私が愛読している本の一つである、

中国の古典『菜根譚(さいこんたん)』の中にある言葉を

ご紹介させていただきたいと思います。 

 

岩波書店菜根譚』P306より)

[訳文]を先にご紹介させていただきます。 

  鳥の中でも、長く伏せていて力を養っていたものは、いったん飛び上がると、必ず外の鳥よりも高く飛び、また、花の中でも、早く花を開いたものは、必ず外の花よりも早く散る。この道理をわきまえておれば、中途であし場を失ってよろめく心配を免れることができ、また、成功をあせる気持を消すこともできる。 

 

[読み下し文]は次の通りです。

  伏すこと久しきものは、飛ぶこと必ず高く、開くこと先なるものは、謝すること独り早し。此れを知らば、以て蹭蹬(そうとう)の憂いを免るべく、以て躁急(そうきゅう)の念を消すべし。

 

つまり、

「長く力を蓄えていた鳥が飛び立つときは、必ず高く飛ぶ」

のであり、また、

「早く咲いた花ほど、早く散っていく」ということは、

「遅く(力を蓄えてから)咲く花は、実り豊かに長く咲く」

ということだと思います。

 

「うまくいかないときは、無理に動かず、力を蓄えるとき」

と聞くことがあります。

 

「力を蓄える日」には、

「リラックスの日」「リフレッシュの日」のほか、

「考える日」や「学ぶ日」、「試行錯誤の日」なども、

該当するように思います。

 

出番の日も、出番に備えている日も、

その日数は人によって違うと思いますが、

いずれにしても、

「毎日」とは、

「出番の日」と「出番に備えている日」で構成されている

「大事な日々」である、と私は思います。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

菜根譚』洪自誠、今井宇三郎(訳注) 岩波書店

 菜根譚 (岩波文庫)

「これからも生きていく力」について。

自殺の阻止

今日は、「これからも生きていく力」について、

述べさせていただこうと思います。

 

私は、生まれてから今日まで、

有形無形の力に支えられ、

生きてくることができました。

 

たくさんの優しさをいただき、

愛情をいただいてきました。

 

だから私は、

これまでに自分の身に起きた、私なりの困難を乗り越えて、

今日を迎えることができているのだと思います。

 

時に、努力をした自分のことを認めたいと思いますが、

努力することができたのも、くじけなかったのも、

過去に、「私に優しくしてくれた人がいた」

という記憶があるからできたことなのだろう、

と思ったりもします。

 

振り返れば、

これまで私たちが生きてくることができたのは、

たくさんの命を受け継ぎ、

たくさんの命をいただいてきたから、

ということは、多くの方々が思われていることと存じます。

 

受け継いできた命、もうすでにいただいた命を思うと、

自分に困難なことが起きても、

自分の一存で、生きるのをやめるという選択はできない、

「生きよう」と思うことが「礼儀」である、

と思えて参ります。

 

優しくしてもらったこと、

命をいただいてきたこと……

このような記憶は「とても強い力」となり、

このような記憶のある限り、

人に、私に、「これからも生きていく力」がある、

と私は思います。

 

しかし、世の中には、

親から虐待を受け、

周囲からも助けてもらえずに育った場合など、

人に優しくされていない、

愛情をもらった記憶はない、

という方がいらっしゃることと思います。

 

そして、

「これからを生きていく力」を感じることができない方も、

いらっしゃることと思います。

 

そのような方々に向けて、

私が愛読する加藤諦三先生の本には、

次のようなことが書いてあります。

  そういう人は誰の助けもなく今日まで生きてきた。そのことのもの凄さを理解していない。

 小さい頃、体を壊しても、壊したということに誰も気がついてくれなかった。自殺未遂をしても誰も気がついてくれなかった。

 どんなに困っても相談する人はいなかった。

 ……たった一人で生き抜いてきた。そのことをあらためて自分に確認することである。(『「怒れない人」の心理』(P234・235)

 

また、『自立と依存の心理』という本には、

  母なるものを体験しなかった者が、心の支えを得るためには、自分は「愛されなかった」という事実を正面から受け入れなければならない。

 が、同時にそれを「自分は厳しい環境で鍛えられたのだ」という誇りに変える必要がある。……その厳しさに鍛えられながら、とにかく今日まで生きてきたということを誇りにしなければならない。

 それが誇りに変えられたときに人は変わる。(P114)

 

 母なるものを持った母親とのコミュニケーションで生まれるエネルギーがないのに今まで生きてきた。

 その自分のエネルギーを信じることである。

 冷静に考えれば「私は凄い」と気がつくはずである。(P116)

 

「よくここまで戦った、私は凄いな」と気がつけばよい。(P127)

 

つまり、加藤諦三先生は、

これまで誰からも優しくされてこなかった。

愛されてこなかった。助けてもらえなかった。

それでも、この厳しい環境を生き抜いてきた。

そのようなあなたは「凄く強い人」なんだ。

そして、その鍛えられた強さを「心の支え」にすればいい。

と本の中でおっしゃっているのです。

 

私も、そのようなあなたは「凄く強い人」だと思います。

 

私は、そのような強さに、魅かれます。

 

「厳しい環境を生き抜いてきたこと」を「誇り」に変えて、

そして、これからも生きていく中で、優しさに出逢う度に、

ますます、もの凄く強い人になっていくのだと思います。

 

すでに優しさを受け取ってきた人も、

そうではなく、これからという人も、

今日まで生きてきた人は、皆、

「これからも生きていく力がある」

と私は思います。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

『「怒れない人」の心理』加藤諦三 PHP研究所

「怒れない人」の心理 隠された敵意は悩みとなって現れる (PHP文庫)

『自立と依存の心理』加藤諦三 PHP研究所

自立と依存の心理 (PHP文庫)