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世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

私の探しもの。

先日、久々に、神戸に旅行に行きました。

 

私は千葉県に住んでおり、

東京駅から新幹線という交通手段もありましたが、

今回は、「飛行機に乗りたい!」という気持ちが芽生え、

羽田空港から神戸空港へというルートを選びました。

 

実は、神戸在住の方で、はてなでブログを開設されている、

Mayumiさん(id:mmm-thatsfine)と知り合い、

お友達になりました。

 

Mayumiさんは、

「MMM(エムエムエム)」というダンスの先生をなさっていて、

子どもたちに、ボランティアでMMMを教えている方でもあります。

 

※MMMはマーガレット・モリスさんという方が創始者で、

 正式には「(MMM=)マーガレット・モリス・ムーブメント」

 というそうです。

 

子どもたちがキャーキャー言いながら楽しんでいる様子が、

私によ~く伝わって来た時から、

「私もMMM、やってみたいなぁ」

という気持ちが生まれていました。

 

MMMは現在、関東圏ではレッスンの開催がなく、

神戸、大阪、福岡、長崎でのレッスンがあるそうで、

私は、神戸でMMMを体験してきました!

 

私が受けたレッスンの先生は、

Mayumiさんではなく、別の先生でしたが、

先生をはじめ、レッスンを受けられている皆さんの表情は、

やわらかな笑顔で、とてもイキイキされていて、

その場所は、私にとって、とても居心地のよい場所でした。

 

MMMは「しなやか」な動きをするのですが、

(私は全然しなやかではありませんでしたが……)

「しなやか」な気持ちをもった方々が集まり、

実際にしなやかな動きをする方々に囲まれて、

だから私は、居心地のよさを感じたのではないかと思います。

 

そして私は、MMMを体験した帰り道(宿泊ホテルまでの道のりで)、

「心身(しんしん)」と「身心(しんじん)」という言葉が

脳裏に浮かんでいました。

 

私たちは、ふだん、

「心とからだ」を「心身(しんしん)」と表現すると思いますが、

仏教には、「心」より「身」を先にもってきて、

「からだと心」で「身心(しんじん)」とする表現があるそうです。

 

「身心」は、

「身を調えて、息も調える……すると自ずと心も調う」

という状態をいうようです(『糧になる禅語』P70,71を参考)。

 

※因みに、「身・呼吸・心を調える」ことは、

 坐禅をする際の基本となっており、

 「調身(しょうしん)・調息(ちょうそく)・調心(ちょうしん)」

 と言うそうです(『日本仏教がわかる本』P182を参考)。

 

※また、私は、

 「姿勢を正すこと」を意味する「調身」について、

 「疲れているから休ませよう」

 「休ませ過ぎだから動かそう」

 というように、

 自分の、そのときどきの身体の状態に合わせて、

 「身体に必要なはたらきかけをすること」

 という意味もあると考えています。

 

「心」と「身」が相互に作用することは、

多くの方が実感されていることではないかと思います。

 

嫌なことが続けば胃が痛くなる、

というようなことは、私も経験しております。

 

ただ、「しなやかに」という気持ちが、

「身体のしなやかさを促す」こともあると思うと、

「心→身」という順番にいい面が多分にある、

ということも思っています。

 

ただ、この度MMMを体験して、

「心を調える」よりも、先に

「身を調える=姿勢を正し、身体に必要なはたらきかけをすること」

をもってくるほうが、

「心を調える」ことが“早く”できるようだ、と思いました。

 

だから私は、MMMを体験した帰り道に、

「身心」という言葉を思い出したのだと思います。

 

また、MMMを体験して思ったことを、

うまく表現する自信がありませんが、

私なりに表現させていただきますと、

「動き」は、「ヨガ」+「バレエ」-「何か」+「何か」

という感じであり、

「心と身体」は、しなやかに向かって共鳴している、

という感じがしました。

 

これは、私にとって新たな発見であり、楽しかったです!

 

初めて体験するものは、体験してみて、

はじめて、どのような気持ちになるのかを知ることになりますが、

私は日頃から、「私の知らない世界」を知りたいと思っています。

 

それは、そこに、「私の探しもの」があるからではないか、

と思っているからです。

 

「私の知らない、どなたかの気持ち」、

「私自身が気づいていない私自身の気持ち」なども、

私は知りたい、気づきたい、と思っています。

 

私には、

「私が今まで知らずにいた心境だけれども、

知ってみると、実はそれは、私の知りたかった心境だった」

と思うことがあります。

 

また、知っていたようにも思うけれども、

「改めて気づかせていただいた」「再認識することができた」

と思うこともあります。

 

このような、

「私一人では気づくことのできない、

人に、何かに、気づかせていただいて知ることができる心境

これが、「私の探しもの」です。

 

そして、ブログという世界では、

私の体験・経験していないことや、

私の知らなかった世界が書かれていたり、

日常の中の、私が感じていないことが語られていたりして、

「私の探しもの」が見つかることが、よくあります。

〈〈どうもありがとうございます!<(_ _)>〉〉

 

また、自分と同じことを思う方に出逢えた時は、

「“新たに”仲間に出逢えた」ような気がして、

勝手に嬉しく思っております(^^)。

 

そしてこの度、私は「飛行機」に乗り、

これまで、「飛行機は、遠いところに行く時に乗るもの」

という程度の感覚しか持ち合わせていなかった自分に

気がつきました。

 

しかし、

「遠くても、そこへ私が行くことを可能にしてくれるもの!

それが飛行機なんだ!」と改めて思い、

さらに、

「遠いと思っている場所は、案外、思っているほど遠くない。

だって、飛行機があるのだから!」

とも思いました。

 

飛行機に、そうそう頻繁に乗れるような私ではありませんが、

それでも、羽田空港に帰って来た時も、

東京駅に着いた時も、自宅に着いた時も、

「現実に戻った」という感覚はありませんでした。

 

これまで遠いと思っていた場所を、

「それほど遠くない」と思うようになったこと。

これは、

「飛行機」が教えてくれたから知ることのできた、

「私の探しもの」だったと思っています。

 

きっと、新幹線でも同じことを思ったかもしれません……

と言いますか、

新幹線もそういう素晴らしい乗り物に違いないです。

 

また、私は普段からバスも電車も利用していますので……

とにかく、世の中の交通機関がありがたい!素晴らしい!

と、つくづく思う旅にもなりました。

 

これからも、

見る、読む、聞く・聴く、問う、考える……と共に、

実際にどこかに出向くこともして、

「私の探しもの」が見つけられるといいな、

と思っています。

 

また、Mayumiさんには、

神戸の街をたくさんご案内していただきました。

〈〈ありがとうございました!Mayumiさん!〉〉

 

最後に、

「布引(ぬのびき)ハーブ園」というところで咲いていました、

私が大変気に入りましたお花を載せて、

本日の記事を終えたいと思います。

 

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お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

参考文献

『糧になる禅語』佐藤隆定 国書刊行会

 糧になる禅語 いまを充実させる生き方

『日本仏教がわかる本』服部祖承 大法輪閣

 日本仏教がわかる本―仏教を学ぶ

「つくべき縁」「離れるべき縁」について。

先月(3月)から今月にかけて、

卒業式、入学式・入社式などがある春の訪れとともに、

「別れ」と「出会い」という言葉を

何度か見聞きいたしておりました。

 

また、私の前回の記事では、

仏教」や『歎異抄(たんにしょう)』に対する、

皆様の温かいまなざしを感じ、

仏教が大好きな私としては、とても嬉しい気持ちになり、

ありがたく思っておりました。

 

このような思いがあいまって、

私は、『歎異抄』の中に出てくる言葉、

「つくべき縁」「離れるべき縁」が脳裏に浮かんでおりました。

 

そこで、今回の記事は、そのような縁に関することで、

私の思っていることを書かせていただきたいと思います。

 

親鸞聖人が、

「つくべき縁」「離れるべき縁」について語られたことを、

親鸞聖人の弟子・唯円(ゆいえん)が、

歎異抄』の第六条に記しています。

 

(以下、『歎異抄角川学芸出版を参考書として、

現代語訳等でご紹介させていただきます。)

 

親鸞聖人がこの縁について語られたのには、

次のような背景がありました。

  親鸞の教えに共感して念仏する人が多くなると、親鸞を師と仰ぐ直弟子と、直弟子を師とする孫弟子も生まれ、やがて、わが弟子、ひとの弟子というような、わけへだてをして争うなど、さまざまな問題が発生した。

 このような事態に直面して、親鸞は、師匠とはなにか、弟子とはなにかと、あらためて自らに問いかけた。

 そして、そうだ、自分には弟子は一人もいなかったのだ、すべて阿弥陀仏の弟子であり、念仏者は、みな、ことごとく、同じ浄土への道を歩む同行なのだと、気づかされたのであった。(P22,23)

 

そして、『歎異抄』第六条によれば、

親鸞聖人は、次のようにおっしゃっていたそうです。

  この親鸞は、弟子は一人ももっておりません。……(略)……

 人は、つくべき縁があれば、共につれそい、離れるべき縁があれば別れることもあります。それゆえ、今までの師匠にそむいて他の人にしたがって念仏するものは、浄土に生まれることができない、などというのは、決して言ってはならないことです。その人に阿弥陀さまからくださった信心を、自分があたえたものであるかのように思い、とりかえそうとでもいうのでしょうか……(P87,83)

 

親鸞聖人は、皆、阿弥陀さまの弟子である、と思った方です。

 

また、「念仏する」という行為も、

人が誰かにさせるものではなく、

阿弥陀さまがそうさせてくださるものなのだ、

と思っていた方でした。

 

ですので、

(実際には、親鸞聖人にはたくさんのお弟子さんがいましたし、

この『歎異抄』の著者・唯円もお弟子さんですが、)

親鸞聖人には、

「自分に弟子がいるという意識はなかった」とそうです。

お互いを、

「念仏をとなえる者同士」「阿弥陀さまに救われる者同士」

としか思わず、

「友」とか、「同胞」、「同行」と思っていたようです。

(『親鸞! 感動の人生学』山崎龍明氏(P198)等を参照)。

 

私は、「自分がよいと思ったことをすすめる」

というのは、(押し付けでない限り、)

いいことだと思っています。

 

そしてもちろん、

「自分がよいと思ったことをすすめてもそれをしない人」とか、

「自分とは違う考え方をする人の方へ行ってしまった人」とか、

そういう相手に憤るような方には、私は仏教者を感じません。

 

また、「弟子をごっそり持って行かれた」と憤り、

「取り返そう」と躍起になる方にも、

同じく、仏教者を感じません。

 

親鸞聖人は、

いずれ誰もが阿弥陀さまに救われるのだから、

弟子を奪い合う必要などないし、

むしろ、弟子を「自分のもの」のように思うことがおかしい、

とおっしゃっているのだと思います。

 

そして、この『歎異抄』にでてくるお話は、

私たちの日常の中にある「別れ」と「出会い」にも、

同じようなことが言えるのではないか、と私は思います。

 

ある人が、自分と同じ道を歩むのか、自分と違う道を歩むのか、

それは「ご縁」を抜きにして考えられるものではなく、

「つくべき縁」があって、

お互いに同じ道を歩もうと思い合えればそれを喜び、

「離れるべき縁」があって、

自分と違う道を選んでいった方がいれば、

その方にもちゃんと救いがあることを信じる、

というのが、「ちょうどいい心持ち」のように思います。

 

そして私は、ここで、もう一つ、

申し上げたいと思うことがあります。

 

ご存知の方も多いかもしれませんが、

仏教の言葉であり、日常でも用いられている、

「四苦八苦(しくはっく)」という言葉がありますが、

これは、「四つ」の苦しみに、もう「四つ」苦しみがあって、

合計「八つ」の苦しみが説かれたものです。

 

〈ごく簡単に説明をさせていただきます。〉

生(しょう):生まれる苦しみ

老(ろう):老いる苦しみ

病(びょう):病気になる苦しみ

死(し):死ぬ苦しみ

愛別離苦(あいべつりく):愛するものと別れなければならない苦しみ

怨憎会苦(おんぞうえく):厭なものと会わなければならない苦しみ

求不得苦(ぐふとっく):求めているものが手に入らない苦しみ

五陰盛苦(ごおんじょうく):心身があるために煩悩が生ずる苦しみ

(『ブッダの教えがわかる本』P116~117参照)。

 

どちらも苦しいことだと思います。

 

そして、(上記で太字にした)

愛別離苦」=「愛するものと別れなければならない苦しみ」も、

もちろん、とても苦しいことだと思います。

 

しかし、

「愛していて、別れたくない」と思えるような人に出会えた人生は、

実は、とても素晴らしい人生だ、と私は思います。

 

人生に、そういう、

愛する人が登場したことの「幸せ・喜び」もあることを、

見落としたくない、

苦しみ・悲しみのために忘れてしまうことのないようにしたい、

と私は思うのです。

 

そして、だからこそ、

「つくべき縁」「離れるべき縁」があるとしても、

離れたくないならば、「離れたくない」と思って、言って、

いいのだと思います。

 

「会いたい」と言って、いいのだと思います。

 

「会いたい」「また会いたい」「離れたくない」

という方とすでに出会っている方も、

これから出会うという方も、

「とても素晴らしい人生」であることに、

どうか、「喜ぶこと」を、お忘れなく!!

と私は思っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

歎異抄千葉乗隆 角川学芸出版

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

親鸞! 感動の人生学』山崎龍明 中経出版

親鸞! 感動の人生学 (中経の文庫)

ブッダの教えがわかる本』服部祖承 大法輪閣

ブッダの教えがわかる本―仏教を学ぶ

私の、仏教が大好きな理由。

私は仏教徒ではありませんが、

仏教が大好きです。

 

仏教の教えの中で、

私が大変気に入っておりますのは、

「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」

という教えです。

 

「自灯明・法灯明」は、

「自分をよりどころとし、正しい教えをよりどころとすること」

という意味で、

私は、自分の生き方の基本的な考え方として、

取り入れさせていただいております。

 

※「自灯明・法灯明」に関しましては、

 以前、記事にさせていただいております。

 皆様に許すお時間があり、お読みいただけたら幸いです。

morimariko.hatenablog.jp

 

このほかにも、私は、仏教の教えの多くに共感し、

お導きをいただいてきたと思っております。

 

しかし、私には、

仏教の教えのすべてに頷いているわけではない」

という本心があります。

 

また、私がこのような本心をもっていても、

仏教が、私から去って行ってしまったことはなく、

去って行きそうな気配すら感じたこともないまま、

今日を迎えております。

 

それで私は、本心を偽る必要もなく、

安心して、仏教を好きでいられます。

 

この私の気持ちをますます安心させてくださるようなお話が、

歎異抄(たんにしょう)』という本に書かれています。

 

※ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

 『歎異抄(たんにしょう)』は、

 浄土真宗の祖「親鸞聖人」の弟子である「唯円(ゆいえん)」が

 著したもので、東洋の聖書とも言われています。

 

この『歎異抄』の第九条に、

唯円が「念仏を唱えても喜ぶ気持ちが湧いてこないのはなぜか」

と本心を打ち明け、

それに対して、親鸞聖人が答える場面が出てきます。

 

(現代語訳でご紹介させていただきます。)

「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません。また、急いで浄土へまいりたいという心もおこりません。これはいったいどうしたことでしょうか」とたずねました。すると親鸞聖人は、「実はわたしも同じような疑問をいだいていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ思いをもっていたのですね」といわれて……(『歎異抄角川学芸出版P85) 

 

仏教徒であり、念仏者である親鸞聖人と唯円が、

「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません」

と言えてしまう、

こんなに「本心でかまわない」仏教が、

私は大好きなのです。

 

このあと、親鸞聖人は、唯円に、

喜べないのは煩悩のしわざであり、

阿弥陀さまは、そのようなわたしであることをはじめから知って

おられ……」

と答えていらっしゃいました。

 

この、唯円が本心を打ち明ける第九条よりも前の、

第一条に「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という言葉があります。

 

角川学芸出版の『歎異抄』P12には、

  摂取不捨とは、単に仏がおさめとって見捨てないということではない。親鸞は『浄土和讃』の中で、仏に背をむけて逃げるものを、どこまでも追いかけて、ひとたびとらえると、決してはなさないことであるといっている。

と書かれています。

 

繰り返しますが、

「摂取不捨」とは、阿弥陀様が、

「仏に背をむけて逃げるものを、どこまでも追いかけて、

ひとたびとらえると、決してはなさないこと」

という意味だと書かれています。

 

阿弥陀さまは、

人間に深い煩悩があることを十分ご承知で、

人間とはそういうものであるからこそ「救いが必要」なのであり、

だから、「(救いを必要とする)すべての衆生を救う」

という誓願を立ててくださった方です。

 

人が、「この誓願は、煩悩深き自分のために立てられたものだ」

と深く頷き、

その人に、「念仏しよう」という思いが「自然に」湧きあがったなら、

それが、阿弥陀さまがその人を救うために、

「とらえて、決してはなさない」

という合図になるようです(と、私は解釈しています)。

 

私は、仏・阿弥陀さまの救いなくして、

今日の私はなかっただろう、と思っている私です。

 

しかし、仏教に出会い、念仏に出会い、

仏の慈悲に触れてもなお、

仏教の教えのすべてに頷いているわけではない」

とも思っている私です。

 

このような私に、

仏教が好き」という思いが一度も消えたことがないのは、

仏の「ひとたびとらえると、決してはなさない」

という慈悲・恩恵をいただいているからなのではないか、

と思っています。

 

私の、仏教が大好きな理由は、

この度申し上げたことがすべてではありませんが、

理由の中でも大きいものを述べさせていただきました。

 

私の、仏教が大好きな理由をもう一度、

箇条書きにさせていただきますと、次のようになります。

・本心でかまわない(むしろ、本心がいい)

・(どのような本心をもっていても)私から去って行かない

・背をむけて逃げる私をどこまでも追いかけて、とらえ、

 決してはなさないでくれる

 

因みに、私が仏教の教えで頷くことができない箇所というのは、

私が理解できないだけ、という可能性が大いにあり、

「まだ、結論が出ていない」ということでもあります。

 

ひっかかる点に、

「これはどういうことだろう?」

「そういうものかなぁ?」と、

これまで通り、問い続けたいと思っております。

 

そして、納得できたときは、

素直に頷きたいと思っております。

 

※「念仏」については、またの機会に記事にさせていただけたらと

 思っております。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

歎異抄千葉乗隆 角川学芸出版

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)