世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「平和」について。

※本日の記事は、約4,200字になっております。

 皆様のご都合のよろしい時にお読みいただけたら幸いです。

 

今月は、15日が平成最後の終戦記念日であったこともあり、

全国戦没者追悼式における天皇陛下

「戦後の長きにわたる平和な歳月(に思いを致し……)」

というお言葉を耳にしたこともあり、

「平和」について改めて考えてみたいと思いました。

 

ただ、私がこれから述べさせていただこうと思う「平和」は、

「戦争」だけを念頭においてのことではなく、

自分の身近で起きるような人間関係の問題も含め、

私たちが「平和」に過ごすためにこのように考えてみてはどうか、

と思いながら述べるものです。

 

誰もが「平和」を求めていると思いたいのですが、

もしそうであったとしても、

「平和」の意味・定義、有り様について、

“根本的な誤り”や、“認識の違い”があるまま、

それぞれが「平和」を求めても、

「人類の平和が調和する」ことがないのではないか、

と思います。

 

また、「平和」というのは、

「たいらで、なごやか」という文字を書くわけですが、

この文字通り、

「平和」を求めるならば、その求め方も、

「たいらで、なごやか」であるのがふさわしい、

と思います。

 

私は、「平和」、とりわけ「和」という言葉を目にすると、

聖徳太子がつくり定めた『十七条憲法』第一条に登場する、

「和をもって貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」という言葉が

脳裏に浮かんで参ります。

 

きっと、この言葉が脳裏に浮かぶのは私だけではないと思います。

ですので、ご存知の方も多くいらっしゃることと思いますが、

その言葉の登場箇所を、私自身が非常に影響を受けたと感じている

聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想―』という本から、

[現代語訳]と[原文]を引用させていただき(P62)、

こちらに載せさせていただこうと思います。

(また、原文につきましては、そのすぐ下に、

すべてひらがなでの表記を添えさせていただきます。)

 

[現代語訳]

第一条 平和をもっとも大切にし、抗争しないことを規範とせよ。人間にはみな無明から出る党派心というものがあり、また覚っている者は少ない。そのために、リーダーや親に従わず、近隣同士で争いを起こすことになってしまうのだ。だが、上も下も和らいで睦まじく、問題を話し合えるなら、自然に事実と真理が一致する。そうすれば、実現できないことは何もない。

 

 

[原文]

一に曰く、和をもって貴しとなし、忤うことなきを宗とせよ。人みな黨あり。また達れる者少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず。また隣里に違う。しかれども、上和ぎ、下睦びて、論うに諧うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

(いちにいわく、わをもってとうとしとなし、さからうことなきをむねとせよ。ひとみなとうあり。またさとれるものすくなし。ここをもって、あるいはくんぷにしたがわず。またりんりにたがう。しかれども、かみやわらぎ、しもむつびて、あげつらうにかなうときは、じりおのずからつうず。なにごとかならざらん。)

 

私のほうで該当箇所を太字にし、

また、非常に大事だと思うところに下線を引かせていただきました。

 

私が下線を引いたところは、

「人間にはみな無明から出る党派心というものがあり、また覚っている者は少ない」というところですが、

人類が争わないようにするには、

この部分を理解することが非常に重要である、と私は思っています。

 

下線を引いた文中にあります「党派心」の意味は、

広辞苑』には、「一つの党派に偏する心」と書いてありました。

 

また、『聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想―』の著者は、

「無明から生まれる党派心」を、

「自分や自分の利益にどこまでも執着する心の働き」

と説明されています(P42,43)。

 

さらに、著者が、聖徳太子について、

「無明にとらわれ、党派心にとらわれた人々への、慈しみも悲しみも深かったのである」

と書かれているところがあります(P80)。

 

「党派心」や「覚っている者は少ない」という言葉に重みを感じつつ、

できる限り純粋に読むよう心掛けて解釈を試みると、

『十七条憲法』第一条には、

「人の心というものは「“一方に”かたよりがち」であり、

また、「人は覚っていないから“他方と”争いを起こす」のであり、

だから、まず、

「自分以外の人の話や言い分を聴いて、

かたよっているかもしれない自分の考えを平らにする」

という心構えが必要であり、そのうえで、

「自分が覚っていないだけでなく、

相手も覚っていないかもしれないことを(疑うというのではなく)、

思いやる気持ちで慮って、和やかに睦まじく話し合おうとすれば、

争いを起こさないことができる。

それが、我々が最も大切にするべき「平和」というものである」

ということが書かれている、と私は思いました。

 

短く申し上げれば、

自分の心を「平ら」にして、人とは「和やか」に接することで、

争いのない「平和」は実現するのである、と書かれているのだと、

私は(『十七条憲法』第一条を)解釈しているということです。

 

私は、聖徳太子がおっしゃっていたように

「実現できないことは何もない」とは思いたいものの、

世界中が「平和」であることの実現は大変難しい、

というのが実情であると思ってきました。

 

今でもそう思ってしまいます。

 

そして、「自分の心を平らにする努力をし尽くす難しさ」と、

「世界中の平和を実現することの難しさ」の、

「難しさ」が似ている、という気がしてきました。

 

さらに、私は、

自分自身の心を「平ら」にする努力をし尽くしていないまま、

「世界中の平和を実現することが難しい」と言っているのだなと、

今、私自身を省みる必要性を深く感じております。

 

また、「自分の心を平らに」しつつ、

それでいて「自分の考え」を持ち、

さらに、「相手を思いやる気持ちで慮る」

ということをしようとすれば、

やはり、難しいと思ってしまいます。

 

しかし、これらを同時に可能にするのが、

「和して同ぜず(わしてどうぜず)」という姿勢・態度、

なのではないか、とも考えています。

 

この論語(厳密には「君子は和して同ぜず、小人同じて和せず」)も、

多くの方がご存知でいらっしゃることと存じますが、

念のため、『明鏡国語辞典』で「和して同ぜず」の意味を調べますと、

「君子は誰とでも協調するが、道理にはずれたことには同調しない。主体性をもって人とつき合うべきだということ。」

と書いてありました。

 

私は、「相手を思いやる気持ちで慮る」ということについて、

覚っていないかもしれない相手は、

もしかしたらまちがっているかもしれない相手なのであって、

その相手の言動について(それは違うのではないかと思うならば)、

「鵜呑みに信じない(であげる)」「乗らない(であげる)」

ということも(「慮る」に)該当すると思っています。

(因みに、状況に応じて、ただ「見守る」としたり、積極的に意見を述べて「注意を促す」とするなども「慮る」に該当すると思っております。)

 

そして、「和して同ぜず」という精神を持ち、

「道理にはずれたことには同調しない」という人がいるおかげで、

「戦争が起きにくくなる」のではないかと思います。

 

もちろん、自分や相手がまちがっているというのではなくて、

「ただ意見が合わないというだけ」ということもあると思いますが、

その場合にも、「和して同ぜず」の精神が生きてくると思います。

主体性をもっている人は、相手にも主体性があることを望み、認め、

それ以上には争わないのではないかと私は思います。

 

「和して同ぜず」という姿勢・態度を取ることがあるから、

「和をもって貴しとなす」を体現することができるのであり、

それが、身近なところにも、遠くのところにも、つまりは世界に、

「平和」をもたらすのだろう、と私は思います。

 

よく、「脅威に備える」という言葉を聞きますが、

私は、その備えが必要ではないとは思っていません。

しかし、備えが手厚くなるにつれ、その「備えの手厚さ」が、

自分の心を「平ら」にして、人とは「和やか」に接することが、

「真の平和」に必要不可欠であることを、

人の心から“忘れさせてしまう”のではないかと懸念しております。

 

「平和」のためには「戦闘機や武器を装備すること」が「現実的」で、

「自分の心を平らにして、人とは和やかに接すること」は「理想」だと

称されることもあるかもしれませんが、日本の、

天皇陛下がおっしゃった)「戦後の長きにわたる平和な歳月」

は、「理想を掲げること」から始まったのではないかと思います。

 

私は、以前から、

“現在の状況に合わせて”憲法や法律を変えるという発想について、

「それはおかしいのではないだろうか」と思っていることがあります。

(現在の状況に合わせて憲法を変える必要は全くないと思っているわけではないです。)

 

もともと「憲法」というのは、

国のあるべき姿として「理想」が書かれているのであり、

日本国憲法」の「前文」の途中に、

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、……」という文言があり、

また、その「前文」の最後は、

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」と締めくくられているのですから、

ここに「理想」が謳われていることを確認できると思います。

 

そして私は、

「現在の状況に合わせて日本国憲法を変える」という言葉を聞くと、

それは、

「日本という国は、憲法の理想とするところから離れてきた。

 今後、さらに離れることにする」

と言っていることにならないか、と思えてくるのです。

 

ですので、もし、今まで掲げてきた理想から、

日本という国が離れていったのであるならば、

日本という国のほうが、

“理想”のほうへ歩み戻っていかなければならないのではないか、

と私は思うのです。

 

「理想を掲げること」だけでは、

それは現実にはならないかもしれません。

しかし、「理想を掲げること」をしたから、

望む「現実」を迎えることができたということは、

“ある”のだと思います。

戦後の73年間、日本国憲法の「理想」に支えらえて、

日本が戦火を見ることのない「現実」を過ごせたのは、

その例なのではないかと思います。

 

私は、身近なところにも、遠くのところにも、

つまりは世界に、「平和」を望みます。

 

聖徳太子のご指摘の通り、覚っていない私は、

まず、自分の考えを「平ら」にするという「理想」を掲げて、

時に「和して同ぜず」を用いて、

「和をもって貴しとなす」を目指したいと思います。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想―』岡野守也 大法輪閣

 聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想