海は大きいですね。
海が大きい理由を、
わざわざ考えるということは、
私はしたことがありませんでした。
しかし、『修証義(しゅしょうぎ)』というお経の、
「第四章 発願利生(ほつがんりしょう)」という章の中に、
海が大きい理由を、見つけました。
その箇所の現代語意訳を、『曹洞宗のお経』という本から、
引用して掲載いたします(P115,116)。
(太字部分が、私が「だから、海は大きいのか」と頷いた箇所です。
因みに、下線部分は、私が大変気に入っている箇所です。)
同事ということは、逆らわないということです。自分の立場にも逆らわず、相手の立場にも逆らわないことです。たとえば、人間としての釈尊はさとりにいながら人間の言葉で語り、悲しみをともにしたように、相手の気持ちを自分のほうへ融和させて、その後、自分の慈悲と智慧を相手に同化させる配慮が道にかなったやりかたでしょう。自分の慈悲と相手の立場は、そのときに応じて自由自在です。海がさまざまな川の水を拒否しないのは、相手に和して導く働きです。それゆえに、いろいろな水を受け入れて大きな海となることができるのです。
[原文]は次の通りです。
同事(どうじ)というは不違(ふい)なり、自(じ)にも不違なり、侘(た)にも不違なり、譬えば(たとえば)人間の如来は人間に同ぜるが如し、侘をして自に同ぜしめて後に(のちに)自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、自侘は時に随うて(したごうて)無窮(むきゅう)なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に(このゆえに)能く(よく)水聚りて(みずあつまりて)海となるなり。
このお経に出てくる「同事(どうじ)」という言葉は、
お経の中で意味の説明がなされていますが、
「逆らわないこと」を表しているようですね。
海は、いろいろな水を受け入れて、
だからこそ、「大きな海」になっています。
もし、さまざまな川を選り分けて、
受け入れないとした水もあったならば、
海は、大きくはならなかったのでしょう。
私は、この「川」と「海」を、人の「心」になぞらえて
考えることができるのではないか、と思っています。
「川」とは、人「それぞれの心」を示し、
「海」とは、人の心が集まった「大きな心」を示している、
という気がするのです。
川のように、さまざまな人の心が流れてきて、
それを、海のように、分け隔てなく受け入れられる場所は、
「大きな心」と呼ばれるのだと思うのです。
ですので、ここには、
「自分の立場にも、相手の立場にも逆らわない」で、
「この世を、漂って生きること」ができれば、
「大きな心に行き着きますよ」
との教えが隠されているのかもしれない、と思ったりします。
よく、人それぞれの心が、皆、奥底でつながっていると聞きます。
それで、「以心伝心」ということが起きるそうですね。
人それぞれの心が集まったからこその「大きな心」に、
つまりは、すべての人の心がつながっているわけです。
「自分の立場にも、相手の立場にも逆らわない」で、
この世を漂い生きることができれば、
「大きな心」に必ず行き着くのであり、
そういう生き方ができる人は、
「大きな心の人」と呼ばれるのでしょう。
「以心伝心」も四六時中、起きるかもしれないですね。
(わりと?)ムキになる性格の私は、
いつも、あちらこちらでひっかかっています……
ので、漂ってみたいものです。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献