世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

葛藤とどう向き合うか。

二つ以上の選択肢の前で立ち往生している状態、

これを「葛藤」という、と私は思っています。

 

この道を行くか、あの道を行くかを悩んで……

身動きが取れない状態ですよね。

 

当然なことを言ってしまいますが、

葛藤から解放されるには、「選択する」しかない

と思います。

この「選択」が難しいわけですが……。

 

「葛藤」は、人それぞれ、さまざまなものがあって、

小さいものから、大きいものまであると思います。

 

例えば、レストランで、みんなおいしそうで

何を注文するか悩むのも葛藤の一つだと思いますが、

これは、少し、葛藤を楽しんでいてもいいかもしれないですね。

 

しかし、命にかかわることであれば、そうはいきません。

 

時々、電車のホームに落ちてしまった人を助けた、

というニュースを聞くことがありますが、

その時、インタビュアーの質問に、助けた人が

「気づいたら、からだが動いていた」

と答えているのを見て、私は息をのみました。

 

ただ、こういう場合に

「どうしよう」と思う人がいても当然だと思います。

私も、そう思ったと思います。

 

自分の目の前にいる人の命が、危険にさらされている。

しかし、助けようとすれば、自分の命も危ない。

助けるべきか否か。

これは、大変な葛藤だと思います。

 

そこで、考えてみました。

葛藤と、どう向き合うか。

 

私は、葛藤に対し、二つの着眼点を考えてみました。

一つは、「自分が生きるためにはどうするべきか」という「本能」、

もう一つは「人としてどうか」という「人間性」、の二つです。

 

この二つの、どちらかに基づいて選択したことは、

おそらく、それでいいのだろうと、私は思います。

 

ただ、この二つが「葛藤」になることも考えられます。

そういうときは、非常に難しいこともあるとは思いますが、

「人としてどうか」を優先したほうがいいのではないか

と思います。

 

私は、人に「本能」と「人間性」がある限り、「葛藤はある」

と思います。

 

そして、人に「人間性」がある限り、「人は、人間性を重視する」

と思います。

 

だから、人が、人間性を重視した選択をしなかったときは、

「後悔する」のではないかと思います。

 

人は、いつか死を迎えますが、その時に、

「私は、人として、恥ずかしくない人生を歩んだか」

ということを、振り返ってみるだろうと思います。

 

そして、

人生の中で、難しい選択を迫られたあの時を振り返って、

「人としてどうか」を優先して考えられたことが、

「自分の人生は恥ずかしいものではなかった」という証明を

してくれるかもしれません。

 

私は、もしかしたら、

「葛藤」は、人に「恥ずかしくない人生を教えたがっている」

のではないか、と思います。

 

先に、葛藤から解放されるには、「選択する」しかない

と述べましたが、

何を選択したかによっては、

葛藤から解放されないのかもしれません。

 

解放されたいばかりに、選択をまちがえないようにしたい、

と私は思います。

 

 

お読みくださいまして、ありがとうございました。