先日、千葉県印西市にあるピザレストラン
『PIZZERIA OSOROKU』(ピッツェリア オソロク)
というところで食事をしました。
〈お店の前のお庭の様子です〉
こちらは、障がいのある方を雇用していて、
注文を取るのも、食事を運んでくるのも、
何らかの障がいのあるスタッフの方々でした。
私は友人と、ピザ2種類とデザート2種類を注文しました。
←チーズピザ
もちろんながら、全部おいしかったです!
私はもともとチーズが大好きなのですが、
左上の写真の「チーズピザ」は、
あっさりしているようでありながら、ちゃんとチーズを感じ、
ふわふわっとしているようでありながら、食べ応えのあるピザで、
私だけではなく、多くの方々のお口に合うのではないかな、
と思うピザでした。
そして食事中、スタッフの方が私たちのテーブルに
注文していない「パスタ」を持ってきました。
隣のテーブルとまちがえたようです。
まちがってパスタを持ってきてしまったそのスタッフは、
その後、再び私たちのテーブルに戻ってきて、
頭を下げながら、「すみませんでした!」
とはっきりとした声でおっしゃってくださいました。
このような、再度戻ってきて詫びるという丁寧な接客は、
ふだんレストランで食事をしていても、
あまり見かけない気がいたします。
私は、口に「おいしいピザ」をいただいただけでなく、
「気持ちのよいスタッフの接客」に、
心に「清々しさ」もいただいた、と感じました。
実はこのことをきっかけに、私は、
本日の記事のタイトルにあります『五観の偈(ごかんのげ)』
というお経について、書きたくなったのです。
『五観の偈』は、『五観文(ごかんもん)』とも呼ばれている、
お食事の前に唱えるお経です。
(宗派の違い等により文言が異なる場合がございますが、)
禅宗の僧侶が著された『お経の意味がわかる本』P70,71から、
このお経を引用させていただき、読みがなを添え、
読みがなの下に意訳を載せて、ご紹介させていただきます。
『五観の偈』
一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る。
(ひとつには、こうのたしょうをはかり、かのらいしょをはかる)
この食物が食膳に運ばれてくるためには、幾多の人々の労力と神仏の加護があることを思って、感謝致します。
二つには、己が徳行の全闕と忖って供に応ず。
(ふたつには、おのれがとくぎょうのぜんけつとはかってくにおうず)
私たちの徳行が、この食物をいただくにあたって、ふさわしいものであるかどうかを省みながら、いただきます。
三つには、心を防ぎ、過貪等を離るるを宗とす。
(みつには、しんをふせぎ、とがとんとうをはなるるをしゅうとす)
食物だけに対してだけでなく、私たちは、貪る心を起こさないように致します。
四つには、正に良薬を事とするは、行枯を療ぜんが為なり。
(よっつには、まさにりょうやくをこととするは、ぎょうこをりょうぜんがためなり)
今、この食物をいただくのは、良薬として飢えと渇きをいやすためです。
五つには、道業を成ぜんが為に、当にこの食を受くべし。
(いつつには、どうぎょうをじょうぜんがために、まさにこのじきをうくべし)
仏弟子として正しい生き方を全うするために、今、この食物を(感謝の念を抱きつつ)いただきます
以上のように、『五観の偈』は、
食事が自分の目の前に届くことのありがたさや、
食事をすることの意味などを、
改めて感じさせてくれる内容になっています。
そして私は、このお経の一つひとつから、
次のようなことも思っています。
一つには、見える形で、また、見えない形で、
たくさんの方々のお力添えがあったから、
今、ここに、自分がこうして存在していられるのだ、
ということ。
二つには、「徳を積んだ量」と「食物をいただく量」が
見合っているかどうかを省みれば、
私はもっと徳を積むか、細身になるかしなければいけない、
ということ。^^;
ただ、「これからもっとがんばろう」というような、
活動開始の前に、「意欲の量」に合わせてお食事を摂ることは、
(問題がないというより、むしろ)そうするといいと思っています。
三つには、貪る心があると、
人と何かを“分け合う”という気持ちを忘れ、
自己中心的な人になってしまうこともあるだろう、
ということ。
四つには、人が生きていくうえでは、
心身に「飢えと渇き」が当然に起こり、これは避けられない。
そして、これを癒やそうとするにあたって摂取するものは、
「良薬」=「心身に良いもの」でなければいけない、
ということ。
因みに私は、いただくものが「良薬」でなければ、
「飢えと渇き」は癒やされないと思っています。
五つには、人が生きていくためには、
どうしても、エネルギーが必要であり、
自分が信じた道を選んで生きていくためにも、
食事・栄養の摂取は必要不可欠である、
ということ。
冒頭でご紹介させていただいたピザレストラン『オソロク』に行き、
『五観の偈』の説くところを思い出し、
私は、「また行きたいなぁ~」と思っています。
私が『オソロク』でいただいたものは、
私の「心身」の「飢えと渇き」を癒やしてくれる「良薬」でした。
行きたい場所がある、好きな場所があるというのは、
それだけで元気になりますが、
それだけで元気になれるということは、
その場所が、私にとって「良薬」をいただける場所として
まちがいない!ということだと思っています。
私の「目」に映ったお庭の絵も、咲いていたお花たちも、
私の「飢えと渇き」を癒やしてくれました。
少々お話しが変わりますが、
新年度を迎えてから、幾日か過ぎ、
今、うまくいっている人もいらっしゃれば、
うまくいっていない人もいらっしゃると思います。
今、何かに挑戦しようとしている方もいらっしゃるかもしれませんし、
すでにした挑戦と失敗に肩を落としている方や、
新たな人間関係に悩んでいる方なども、いらっしゃるかもしれません。
私は、
「挑戦する」「計画を立てる・立て直す」「現状を維持する」とか、
また、「考える」「反省する」「謝罪する」「感謝する」なども、
エネルギーがなければ中途半端なものになってしまう、
と思っています。
ですので、いずれにいたしましても、私はまず、
どなたにも「食事・栄養」を摂っていただきたい、
と思っています。
嫌なことや、気になることがあって、
食事が喉を通らないという方もいらっしゃるかもしれませんが、
食事の間は何も考えないことにして、
その嫌なことは「食事の後に考える」ことにする、
というのは難しいでしょうか?
私は、滅多なことでは食欲を落としませんが、
これまでに、全くそういうことがなかったわけでもありません。
(参考になるかどうか、わかりませんが、)
「無(む)、無(む)、無(む)……」とか、
「何も考えない、何も考えない……」などと、
心の中で唱え続けながら食事をしたら、
「食べられた!」ということがありました。
どなたにも、事に臨む前に、
まず、「食事・栄養」を摂っていただき、
ご自分の力を存分に発揮できること、
また、最良の結果・結論を出すことができることを、
私は望んでおります。
何も考えずに何とか摂った食事も“身”になるのであり、
また、一人で摂った食事も、皆で摂った食事も、その時の情景も、
自分の人生の“実”になるのであり、
私は、食事というものが、どなたにとっても、
“ありがたくて、楽しみ”なものであってほしい、
「おいしい!」と味わいながら摂る食事であってほしい、
と思っております。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『お経の意味がわかる本』服部祖承 大法輪閣