世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

あるお寺に行って、悲しくなることがありました。

毎年、ゴールデンウィーク中に、あるお寺に行っています。

今年も行きました。

ただ、今年は、悲しくなることがありました。

 

というのは、そのお寺の、いつも利用していた門が

閉鎖されていたのです。しかも、壁ができていました。

身長155cmの私が背伸びをしても

向こう側が見えないほどの壁です。

 

お寺に入るための地図や案内もなく、

不安なまま入り口を探して歩き続けて……

あった!と思ったら、その門まで閉鎖していました。

 

まさか今日はお休みなのかと思ったら、

参拝客が遠くにいるのが見えて、

やっぱり、お休みではない……。

なのに、私は入れない……。

 

「あなたは、このお寺に入って来なくていい」

と言われている気がして、とても悲しくなってしまいました。

同時に怒りを覚えていましたが。

 

結局、20分歩き続けて、やっと開いている門を見つけ、

入れました。

 

今の私は冷静ではないだろうと思ったので、

とりあえず、参拝して帰って来ました。

 

次の日、お寺に電話をしました。

「いつも開いていた門が閉鎖されていて、壁までできていて、

なぜ、案内一つ置いていないのですか」という私の質問に、

「そうですよね。申し訳ありませんでした」と、

電話に出た方は言いました。

 

結局、もっと簡単に境内に入れる道があることもわかりました。

 

私は「すぐにでも、門や駐車場などに案内を出してほしい」と、

強く、お寺に希望しました。

 

そして、そのお寺は、案内を出すことを私と約束してくれましたので、

私は電話を終えました。

 

電話を切った後に、思い出したことがあります。

閉鎖された門は「東の門」と「西の門」だったことです。

 

私が、なかなかお寺の入り口にたどり着けずにいたときに、

「あなたは、このお寺に入って来なくていい」

と言われている気がしたことと、

何となく、関係があるような気がしてきました。

 

太陽が昇っては沈むを繰り返す「東と西」が、

閉鎖されてしまうなんて、

まるで、光を遮るかのような気がしてきて、

お寺の今後が、何となく、心配です。

 

私の勝手な感覚かもしれませんから、

よく考えてみて、場合によっては、このことも

お寺にお伝えしようかと、今、思っています。

 

 

お読みくださいまして、ありがとうございました。

 

 

(ご報告)

 上記記事は、2015年5月4日に書かせていただいたものなのですが、先日(2016年5月某日)、そのお寺に行って参りました。

 かつて私が利用していた門の前まで行ってみますと、やはり、その門は閉鎖されたままでしたが、「案内」は貼り出されていました。

 しかし、その「案内」は「北中門へお回りください」というだけのもので、北中門が、私の立った位置から、右へ行けばいいのか、左に行けばいいのか、を説明していませんでした。

 お寺が私と約束した「案内」がこれなのかと思うと、非常に残念に思いました。

 昨年、私はそこから左に進んでしまい、境内に入るまで20分かかりましたが、今年は右に進んで行きましたので4分で境内に入れました。

 私は正直に申し上げて、こちらのお寺を「冷たいお寺」と感じました。もう一度、電話で話そうという気になりませんでした。

 実は昨年、私からの電話を受けてくださったスタッフの方が、「住職を含め、全員が貼り紙の必要性に気づかなかった」とはっきりおっしゃっていました。それを今ではご住職もご存知なのにこの程度の案内……。

 

 また私は、閉鎖されていた門が「東と西」であることから、まるで、光を遮るかのようだと思っていたわけですが、実は、こちらのお寺は、私が行く度に大きく、広く、派手になっており、今では大変きらびやかなのです。そのきらびやかさは、私をはじくような感じで、

 「あなたは、このお寺に入って来なくていい」

と、私は再び言われたことを感じました。

 前回は悲しい気持ちになりましたが、今回は悲しい気持ちにはなりませんでした。

 あのお寺は、私が何を申し上げても深く聴いてはくださらない気がいたします。おそらく、あのお寺自身、または、ご住職が、何かに遭遇して「気づき」を得るまで変わらない気がいたします。

 少なくとも今、あのお寺は「お寺ではない」気がいたします。

 私はお寺にお参りに行きたいので、こちらには「もう行かない」ことにしました。

 

 この度のことからは、「お寺、というだけで判断するのではない」「自分が肌で感じた通りを重んじる」ということを、学んだ気がしております。

 

                      2016年5月19日