私の好きな禅語に、「掬水月在手 弄花香満衣」があります。
「水を掬すれば 月 手に在り(みずをきくすれば つき てにあり)
花を弄すれば 香 衣に満つ(はなをろうすれば か えにみつ)」
これは、
「水をすくえば手のなかに月が輝き、
花をつめば誰の服からもいいにおい。」
という意味だと、
『ほっこり、やさしい禅語入門』(P15)に書いてありました。
この本から、さらに引用させていただくと、
(太字部分は、私が特に気を留めた箇所です)
月の輝く夜に手で水をすくいのぞきこむと、そこには月が映っています。三人並んで手にすくった水をのぞきこめば、三人の手のなかにそれぞれ月が映ります。誰の手のなかにも平等に美しい姿を見せてくれる月。……花を手にとっていとおしめば、かぐわしい香りが衣服に移ります。友だちといっしょに花を愛でれば、いつの間にか二人とも服からいいにおいがして、顔を見合わせてにっこり。心がなごみます。
と書いてありました。
世の中には、不平等なことも理不尽なこともある、
と私は思っています。
私はかつて、不平等や理不尽を感じて、
厭世的になったことがありました。
しかし今は、世の中に、平等なことも理に適ったこともある、
と思っており、厭世観はないに等しいです。
このような私がさらに、この禅語に出会ったことで、
思ったことがありました。
それは、
「平等であるのに、平等でない、と思い込んでいるものがある」
ということです。
私は、ある人が手で水をすくい、
その人の手の中で輝く月を横から見ていて、
「いいな」と、
うらやましそうに見ていたことがあるかもしれない、
と思ったのです。
つまり、
私も、自分の手で水をすくえば、
自分の手の中で、輝く月が見られることに、
気づかないでいたのかもしれない、ということです。
手ですくった水の中に映る月は、
それが、「誰の手であるか」を選んで輝いているわけではない、
と思います。
月は、「誰」と選ぶことなく、等しく人に姿を見せて、
「誰」と選ぶことなく、等しく人の行く道を照らしています。
但し、私の手の中で、月が輝くためには、
「自分の手で、水をすくう」
ということをしなければなりません。
この、「自分の手で、水をすくう」ということをせずに、
「あの人の手の中に月はあるけれど、私のところにはない」
と思っていたとしたら、
それは、かなりの思い違いだ、と私は思いました。
「自分の手で、水をすくう」という動作。
これを自らしないことで、
平等なものさえ、平等でないように見えてしまうことがある、
と私は思ったのです。
また、自分の手で水をすくってみたとき、
「月が映らなかったら、どうしよう」
と思って手が出ない、ということがあるのではないか、
と思うと、
ここに、「勇気」が必要なこともあるのかもしれません。
誰かが花を手にとったとき、
やはり、その花は、
それが、「誰の手であるか」を選んで香りを放ってはいないでしょう。
花は、「誰」と選ぶことなく、等しく人に香りを放ち、
「誰」と選ぶことなく、等しく人の顔をほころばせるでしょう。
花を手にとってみること、
自分の手で、水をすくってみること、
それらは、ときに、勇気を必要とするのかもしれませんが、
「勇気」を出したあかつきには、
「等しさ」を確認することができます。
私は、その確認は、とても大事なことだと思っています。
私にだけでなく、人に、大事なことだと思っています。
なぜなら、人が何かの拍子にいだくかもしれない「厭世観」から、
「離れる」ことができると思うからです。
私は、この世の中にある「等しさ」を
一つでも多く見つけられたらいいな、
と思っておりますが、
すでにちゃんと存在している「等しさ」を忘れないように、
ときに、自ら、「月と花」に目を向けたいと思っています。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『ほっこり、やさしい禅語入門』石飛博光 成美堂出版