「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という禅語があります。
『広辞苑』にも、「脚下を照顧せよ」と載っており、
その意味は、
「足もとに注意せよ。真理を外にではなく、自己自身の内に求めよ」
ということだと書いてありました。
また、『ブッダの教えがわかる本』にも、
「脚下照顧」が紹介されていて(P178,179)、
履き物を乱雑に脱ぎ捨てて平気でいるようでは、何をやってもよくないでしょう。……人間の行動で最も端的に表現されるのが、この履き物の脱ぎ方です。
しかし、この脚下照顧は、単に履き物の脱ぎ方だけをいっているのではなく、それはそのまま自分自身をさしています。そして、自分自身への目の向け直しを私たちに警告しているのです。
と書いてありました。
つまり、「脚下照顧」は、
「自分の足もとを照らして、自分をよくかえりみること」、
「外(他人の足もと)を見るよりも、まず、自分の足もとを見ること」
を伝えているのだと思います。
確かに、「靴の脱ぎ方」を見てみると、
(特に、「自宅に帰った時」の「靴の脱ぎ方」で、)
その人の「今の心の状態」がわかるような気がいたします。
例えば、脱ぎっ放しの靴を見ると、
「今日はだいぶ疲れて帰って来た」とか、
「気持ちが落ち着いていないな」とか、
あるいは「元気があり余っているな」とか、
そういうことを感じるかもしれません。
また、脱いだ靴を揃え直してあったなら、
「きちんとしているな」とか、
「今日はゆとりがある感じだ」とか、
あるいは「緊張感が抜けていないな」とか、
そういうことを感じるかもしれません。
脱ぎっ放しの靴であっても、
また、きちんと揃えられた靴であっても、
人それぞれで、同じことを思うとは限りませんが、
「自分の靴の脱ぎ方」を「自分」で見れば、
「今の自分の心の状態」は、わかる気がいたします。
そして、例えば、「今の自分の心の状態」が、
「焦っている」というとき、
意識的に靴を揃えるようにすると、
(今靴を履いていても、そのまま意識して足を揃え直すと、)
一度気持ちを仕切り直すことができて、
心の落ち着きが戻ってくるような気もいたします。
ところで、靴には、
フォーマルなものも、カジュアルなものもあり、
カジュアルな中にも、サンダルやスニーカーがあったりと、
さまざまな種類がありますが、
出向く先によって今日履く靴を決める、
という方が多いと思います。
それだけ足もとを気にする、ということは、
それだけ「自分」を気にかけているということだと思いますが、
それだけでなく、「出向く先と自分」の「調和」を考えている、
ということも言えると思いますので、いいことだと私は思います。
これから出かけるという時に、
自らの足もとをよく見ておくと、
安心して外出できそうですね。
また、自分の脱いだ靴を、どなたかが揃えておいてくださった、
というご経験をされている方もいらっしゃると思いますが、
そういう時、自然にありがたい気持ちになりますよね。
きっと、「大事にしてもらった」と思うからですよね。
ですので、ある方の靴を揃えておいて差し上げたら、
「あなたを大事に思っています」という気持ちが、
その方に伝わるような気がいたします。
「脚下照顧」は、「反省」を促す禅語ではありますが、
「足もと」「靴の脱ぎ方」「靴選び」などから、
いろいろなことが考えられそうです。
きちんと靴を揃える習慣が身に付いているならば、
「私はきちんとできているぞ!」
「私は落ち着いているぞ!」
というふうに、
自分への「自信」につなげてもいい、
と私は思います。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用文献