世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

認知症の方の「意思の尊重」に関すること②。

(本日は、長めの文章です。

 皆様に、許すお時間があるときにお読みいただけたら幸いです。)

 

昨日から、全2回の予定で、

認知症の方の「意思の尊重」に関することで、

私の考えを述べさせていただいております。

 

因みに、昨日(1回目)は、

認知症の方の「意思の尊重」に関すること①。」

の中で、「認知症の方の本当の意思について」

私の考えを述べさせていただきました。 

morimariko.hatenablog.jp

 

そして今日、2回目は、

認知症の方を拘束することについて」

「施設の場合」「家庭の場合」の2つに分けて、

述べさせていただきます。

 

1.施設の場合

 

施設で介護の仕事に従事されている方が、

認知症の方であっても、暴力・暴言がない方であれば、

自然な接し方ができる、とおっしゃっていました。

 

しかし、例えば、靴下を履かせようとしゃがんでいると、

頭を叩いてきたり、罵声を浴びせてきたりするような、

暴力・暴言のある方に対しては、

かなりの緊張感をもって接することになり、

また、我慢に我慢を重ねて接していることも多く、

「仕事だから」「ユニフォームを着ているから」と、

何とか割り切って介護している面がある、

とおっしゃっていました。

 

この、「ユニフォームを着ているから」という言葉は、

私には、状況や思いが、非常によく伝わってくる言葉でした。

 

また、もし、介護が在宅であったなら、

この、「ユニフォームを着ているから」という言葉は、

「家族なのだから」という言葉になるのかな、

と想像しています。

 

そして、いずれにしても心配になるのは、

誰かの我慢の上で成立していることは、

いつ立ち行かなくなってもおかしくないだろう、

ということです。

 

突然、介助者を手で叩いたり、足で蹴ったり、

さらに、物を投げたり、お膳をひっくり返したり……、

このようなことをする認知症の方に対しても、

「手足を拘束すると、人権侵害に該当する可能性が出てくる」

ため、「拘束しない」としている施設は多いようです。

 

しかし、そのために、

「体温が測れなかった」「ガーゼの交換ができなかった」

「湿布を貼れなかった」「目薬をさせなかった」……など、

「処置ができなかった」ということが実際に起きているようです。

 

暴れる認知症の方に対して、

手足を拘束できないために、「必要な処置ができない」

ということでいいのか、

それとも、

手足を拘束してでも、「必要な処置を行う」

とするほうがいいのか、

を考えなければならないと思います。

 

私は、基本的には、

「手足を拘束してでも、処置を行う」ほうがいいと思っています。

もちろん、「必要な処置を行う」時間に限定しての「拘束」です。

 

しかし、そもそも、相手が認知症であろうとなかろうと、

「人を叩いたり、蹴ったりしてはいけない」というのは、

万人に共通の事柄だと思いますので、

だから「阻止するのだ」と考えればいいようにも思います。

 

現実的に、今、相手は認知症だから「やむを得ない」

ということは、あるのだと思います。

 

しかし、「認知症の方は、介助者を叩いてもやむを得ない」

という許容がなされると、いずれ、

「介助者が、言うことを聞かない認知症の方を叩いてもやむを得ない」

ということも許容されていくのではないか、

と私は心配しています。

 

もちろん、これが許容されてはいけないと思います。

 

ただ、先ほども申し上げたように、

「誰かの我慢の上で成立していること」は、

「いつ立ち行かなくなってもおかしくないこと」だと思います。

 

ですので、

介助者の我慢の度合い減少させていくためにも、

そして、必要な処置が行えるようにするためにも、

「必要な拘束はする」、(もちろん「不必要な拘束はしない」

とする必要があると私は思います。

 

2.家庭の場合

 

認知症の方を、外に出さないようにすることが「拘束」にあたり、

これが、「人権侵害」にあたる可能性がある、と聞きます。

 

一方で、認知症の方が、外で誰かに危害を加えたら、

責任能力のない本人に、損害賠償を求めることができないため、

その認知症の方の「監督義務者」が責任を問われる可能性がある、

と聞きます。

 

そして、その「監督義務者」は、

「個々の事情によって、家族がなることも、ならないこともある」

というのが、現在、最高裁が下している判断です。

 

つまり、現在は、認知症の方の「家族」というのは、

認知症の方を「監督しなければならない立場」になったり、

「人権侵害を疑われる立場」になったりするわけです。

 

例えば、認知症の方を在宅介護していた場合、

「徘徊しないように」と、家から出られないようにした家族は、

「人権侵害」を疑われ、

「徘徊させてしまい、その間に人様にご迷惑をかけてしまった」

という家族は、「賠償責任」を追及され得るわけです。

 

このように考えてみると、認知症の方の「家族」は、

「監督義務」と「人権侵害」の狭間に立っているように見えます。

 

その立ち位置は、本当に狭くて、不安定な場所、に私には見えます。

 

私は、家族による虐待もあると思うと、基本的には、

家族に、認知症の方の自由を奪う「拘束」の「権限」を

与えるべきではないと思っています。

 

しかし、家族が、

認知症の方の監督義務者になり得る」、

「賠償責任を負うことがあり得る」ならば、

家族に、適切な程度の「拘束の権限」を与える必要がある、

と思います。

 

そうしなければ、

家族の方々の権利・義務のバランスがあまりに悪い、

と思います。

 

但し、私がこのように申し上げるのは、

あくまでも、現在の家族の立場があまりにも不安定だからです。

 

私が一番いいと思っているのは、

認知症を患っている場合は、施設へ入所する」ことです。

(私は決して、在宅介護のすべてを否定してはおりません。)

 

認知症は、症状が強い方でも、

ほんの少し「我に返る」時間がある、と聞きます。

 

この「我に返った時」に、

「家族に迷惑をかけるだけの自分」を終わらせようと、

自殺する方もいらっしゃると聞きます。

 

認知症の方は、例えば、徘徊中に、

「電車を止めて、多くの人に迷惑をかけた」とか、

「通行人にケガを負わせた」とか……

そういうことをしてしまう可能性があるわけですが、

もし、我に返り、このようなことをしてしまった自分を知った時、

大変ショックを受けるのではないか、と私は思います。

 

「私はなんてことをしてしまったんだ」と。

 

そして、もしかしたら、

どうして誰も、私の行為を止めてくれなかったのだろう、

と思うかもしれません。

 

もし、私が認知症で、人に危害を加えそうな場合、

そのような私の行為を止めてくれた人がいたなら、

「止めてくれてありがとう」と、

その人に、感謝すると思います。

 

これが、認知症の方が、

「我に返った時に思うこと」ではないか、

「本心」ではないか、

「尊重してほしい意思」ではないか、

と私は思うのです。

 

ですので、自由を奪う「拘束」ではありますが、

「拘束」のすべてを、

認知症の方の意思の尊重にならない」と考えたら、

「早合点」ということもある、と私は思います。

 

私は、認知症の方を「守ること」の一つとして、

「人様にご迷惑をおかけしないように、拘束する」

という「守り方」もあると思います。

 

このような「守り方」は、

認知症の方の「尊重してほしい意思」と、

相容れないものではないと思います。

 

また、このような「守り方」が認められれば、

「監督義務」と「人権侵害」の狭間に立つご家族の立場は、

安定していくと思います。

 

但し、もちろんながら、法的・制度的な支えは必要だと思います。

 

ただ、再度申し上げますが、

私が、一番いいと思っているのは、

認知症を患っている場合は、施設へ入所する」ことです。

 

「私は大丈夫」という方もいらっしゃると思います。

しかし、途中で介護をすることがとても苦しくなってきても、

今さら、「やっぱり嫌だとは言えない」と思って、

がんばりすぎてしまうこともあると思います。

 

現実に、介護する側がうつになったり、自殺したり、

また、共倒れするケースも出てきているわけです。

 

適度な距離があることで、仲良くしていられる、

ということもあると思います。

 

在宅でない分、施設に多く足を運んで接する、

というのが、一番いい距離間ではないかと思っています。

 

 

以上、2回に分けて、

認知症の方の「意思の尊重」に関することで、

私の考えを述べさせていただきました。

 

全2回を通じて、私が特に申し上げたかったことは、

認知症の方が、「もし、認知症でなかったら、何と言うだろうか」

 という視点に、認知症の方の「本当の意思」が見えてくる。

認知症の方が、「我に返った時に思うこと」が、「本心」であり、

 「尊重してほしい意思」である。

ということでした。

 

医療や福祉に関することで、

他にも考えるべきことがあると思っておりますが、

またの機会に述べさせていただけたらと存じております。

 

この度は、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。